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『ヴィンテージアロハシャツ』58~●あとがき [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%BD%A4/dp/4777903990

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●あとがき

 思えば八年前、たまたま仕事でアロハシャツと出会い、
それから何度もハワイや京都に足を運んでその歴史を調べ、
ようやく一冊の本にまとめることができた。しかも今年は、
(「ムサシヤ・ショウテン」の新聞広告が出た一九三五年に発明されたと考えれば)
アロハシャツ誕生七〇周年。そんな記念すべき年にこの本を出せるのはとても感慨深い。

 この本がきっかけとなって、
埋もれた日本での歴史が少しでも明らかになればと思っている。
アロハシャツに関わった京都のキモノ業界の人々は、あまり語りたがらないようだけれど、
アロハシャツというものがこんなに素晴らしくて、
これほど世界に誇れるものだということをぜひ知ってもらい、
なんとか話を聞かせてもらえればと祈っている。

 この本は、ハワイや京都で、話を聞かせてくれたり資料を見せてくれたりした
多くの人のおかげで書くことができた。
すべての名前は挙げられないが、ここで感謝の言葉を述べたい。
またアロハシャツを調べるきっかけを与えてくれた、
ワールドフォトプレスの関係者にもお礼を言いたい。
そして、この本で紹介したヴィンテージ・アロハのほとんどを
撮影のために貸してくれた東洋エンタープライズの小林亨一氏にも感謝したい。
それから最後に、今まで黙って見守ってくれた僕の両親にも、ありがとうと言いたい。
この本はみなさんのおかげで書くことができました。
(終わり)
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『ヴィンテージアロハシャツ』57~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●また、高吹勇の魂に引き寄せられてしまった [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%BD%A4/dp/4777903990

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●また、高吹勇の魂に引き寄せられてしまった

 そして今年、つまり二〇〇五年、
また高吹勇の魂に引き寄せられたのかと思えるような出来事があった。
と言うと少々大袈裟だが、とても珍しいアロハシャツに出会ったのだ。
それは、実物はもちろん、本の中でもまだ見たことがなかった
「Takabuki Co」というレーベルが付いたシルク製アロハ。

Takabuki Co. 鶴・富士・小槌 レーベル.jpg
(筆者コレクションより)

富士山と宝船と鶴と小槌という縁起物尽くしの柄は、
キモノの生地をそのまま使ったようにも思えるが、
生地の幅が小幅でないことや色使いがカラフルなことからも、
キモノの生地そのものではないはず。

Takabuki Co. 鶴・富士・小槌 柄2.jpg
(筆者コレクションより)
Takabuki Co. 鶴・富士・小槌 柄1.jpg
(筆者コレクションより)

かといって柄の出方を見ると、
アロハシャツ用にプリントされた生地でもなさそうだ。
ならば、輸出用に作られた広幅のキモノ柄生地だと推測できる。
ということは、これはかなり初期の和柄アロハだということになる。
高吹勇がハワイと日本の間を頻繁に往復するようになった一九四〇年代後半頃に、
京都で開拓した独自のルートを使って、広幅のキモノ柄生地を調達し、
試しに少量だけ作ったアロハシャツーー。それが僕の見立てだ。

Takabuki Co. 鶴・富士・小槌 表.jpg
(筆者コレクションより)

 高吹が、アロハシャツ・ビジネスを始めたばかりの頃に作った、記念すべきシャツが、
いろいろな人の手を経て僕のもとにやってきた。
宝物として大切にしたいと思っている。
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『ヴィンテージアロハシャツ』56~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その3) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その3)

(その2から続く)
それは、縫製だけでなく、プリントからすべてを
自分で手掛けた方が利益がより大きいことに気付いたためじゃないだろうか? 
そして高吹は日本に移住し、京都にあった古い校舎を買い取って染工所にして、
五五年四月から手捺染による生地のプリントやシャツの製造を始める。
これがアロハ貿易だ。
プリント生地は、ハレ・ハワイやサーフライダーなどに卸していたようだ。

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3623A98B00184316AA6F5B1DB57EE21F[1].jpg
(筆者コレクションより)

また自社で作ったアロハシャツは、
「パリ・ハワイアン・スタイル」や「カイマナ・ハワイアン・スタイル」などの
レーベルを付けてカリフォルニアやハワイに輸出。

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(筆者コレクションより)

カリフォルニアでは娘婿のクラランス・ハラ氏が
そのアロハシャツを売りさばいていた。
売れ行きはなかなか良かったのだろう、
五七年にはフジ・インポート社(富士輸入株式会社)を設立して、
アメリカ本土での販売を本格化させた。

ml101ml-img600x450-1368607663kjuclj94474.jpg
(筆者コレクションより)

アロハ貿易ではそのほかにも、
水着、キモノ、ハッピ・ジャケット、ガウンなどを製造して輸出したり、
織りネーム、竹ボタン、装飾品、そして磁器などを
他社から調達して輸出したりもしていた。

 ところが高吹は、ハラさんの記憶が正しければ、一九六〇年頃に死去。
アロハ貿易は経営者が変わってその後も営業を継続したようだが、
「パリ・ハワイアン」のアロハシャツや、アロハシャツ用のプリント生地は、
六〇年頃を境に、もはや作られることはなかった。
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『ヴィンテージアロハシャツ』55~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その2) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その2)

(その1から続く)
 そんな風に貴金属販売の傍ら、輸入業も営んでいた高吹だが、
一九五〇年頃、本格的に輸入業に転業し、
同じ頃「ヴィクトリー・インポート社」を設立する。
将来この職種が大きく伸びると見込んだのだろう。
そして日本からアロハシャツやキモノ、磁器といった
オリエンタルな雑貨を輸入するようになる。
「ヴィクトリー・インポート」ネームのアロハシャツもこの頃、
つまり五〇年から五二年頃に作られたものと推測できる
(このブランドには、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」のレーベルと
「メイド・イン・ジャパン」のレーベルの二種類がある)。

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(筆者コレクションより)

それは、京都の捺染業者にアロハシャツ用のプリント生地を発注し、
京都か大阪あたりでシャツに仕立てさせて、ハワイへ輸入したものだろう。

 一九五〇年頃と言えば、ちょうど日米間の貿易が正式に再開され、
朝鮮戦争が勃発して景気も良くなった時期と重なる。
輸入ビジネスは順調だったはずだ。
そんな状況で徐々に事業を拡大していったのだろう。
五二年頃には、エドウィン・マミヤを総支配人として雇い、
アロハシャツ・ビジネスに本腰を入れる。
日本から輸入したプリント生地を、ハワイの日系人の主婦に家庭で縫製させて、
「イオラニ」ブランドのアロハシャツを生産し始めたのだ。

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(筆者コレクションより)

この「イオラニ」のビジネスはおそらくうまくいっていたはず。
ところが五四年にはその営業権をケイジ・カワカミに譲渡し、
ヴィクトリー・インポート社も清算する。
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』54~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その1)

 ひとまずこの辺で、高吹勇の半生を、
いろいろな人の話やさまざまな資料をベースにしつつ、
多少は僕の想像を交えて、整理してみようと思う。

 一八九八年に高松市で生まれ、八歳の時、家族に連れられてハワイに渡る。
高校を卒業した後、宝石貴金属商に奉公。
独立後は自動車ディーラーのセールスマンなどさまざまな職業を経験する。
四〇年代後半には質店や宝石店などを経営。
その傍ら、戦後すぐから先祖の墓参りをするために帰国し、
その際、日本のさまざまな雑貨をハワイに輸入することを思いつき、
ハワイと日本を頻繁に行き来するようになる。
特にアロハシャツは、自分でも作れないかと考え、
京都でいろいろな問屋や染工所を回ったことだろう。
幸い京都は戦災を免れたため、染色業界もすぐに復興していた。
ただ、アロハシャツのことなど見たことも聞いたこともないという
問屋や染工所の人々を説き伏せて作ってもらうのには苦労も多かっただろう。
でもなんとか協力者を見つけだした。
最初のうちはオリジナルのプリント生地など作れないから、
すでにあった広幅のキモノ柄のプリント生地を調達し、
それをシャツに仕立てて、ハワイへ輸出したのだろう。

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(筆者コレクションより)

当時はまだハワイと日本との貿易が自由化されていなかったから、
和柄のアロハシャツは非常に珍しかったはずで
(和柄アロハが数多く作られ流行するのは、一九五一年以降だ)、
少しぐらい高くても売れただろう。
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』53~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●ハワイでもたまたま高吹勇の話題が出た(その2) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●ハワイでもたまたま高吹勇の話題が出た(その2)

(その1から続く)
 さて、この二〇〇二年六月のハワイ滞在時には面白いことがあった。
「パシフィック・スポーツウェア社」を経営していた
レイ・タナカ氏に話を聞いていたら、偶然、高吹の話が出てきたのだ。
予想していない展開だったので、ちょっと驚いた。

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(筆者コレクションより)
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(ヤフオク出品物より引用)

「イサム・タカブキとエドウィン・マミヤがやっていた『イオラニ』は、
ハワイでアロハシャツを流行させる役割を果たしたと私は思います。
ところが彼らはハワイには工場を持っていなかったんです。
もしあったとしても、とても小さい工場だったでしょうね。
彼らは主に家庭で縫わせるなど下請けに出してシャツを作っていました。
私も彼のためにシャツを作っていた時期があります。
タカブキは私の親しい友人で、あの頃はほとんど毎日、
マミヤと一緒に私の工場に来ていましたよ。
私が思うに、タカブキが『イオラニ』のオーナーで、
マミヤは彼のためにビジネスを取り仕切っていたんでしょう。
つまりタカブキは投資しただけで、実際はマミヤがすべてをやっていたんだと思います。
でもハワイで作っていたのは全体のうちのごくわずかで、
ほとんどは、輸入した日本製のシャツでした。
タカブキは、シャツだけでなくいろいろなものを輸入していましたよ。
だから彼は、アロハシャツのメーカーと言うよりは、
どちらかというと、輸入業者だったんです。
その後タカブキは、『イオラニ』をケイジ・カワカミに売り、
心臓病か何かで亡くなりました」

 「イオラニ」のシャツは、
家庭の主婦の内職によって作られていたという話はとても意外だった。
また「パシフィック・スポーツウェア」のレイ・タナカと高吹は友人で、
彼が縫製を手伝っていたというのも驚きだった。

 高吹勇には本当にいろいろな場面で遭遇する。
他のメーカーの関係者をインタビューしている最中に、
まさか彼の話題が出てくるなんて・・・・。
彼の魂が、僕について回って、
自分のことを知ってもらいたがっているような気さえしてくる。
「僕が調べないで誰が調べる」とさえ思えてくる。
こうして高吹勇は、僕の中でますます特別な存在になっていった。
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『ヴィンテージアロハシャツ』52~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●ハワイでもたまたま高吹勇の話題が出た(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●ハワイでもたまたま高吹勇の話題が出た(その1)

 翌年の二〇〇二年六月、半月ほどハワイに滞在し、
資料を探したり、関係者に会って話を聞いたりした。
その時にも、高吹勇のことが気になり、いろいろ調べてみた。

 高吹勇は、一九二九年にはオアフ島中部にあるワイパフ
(プランテーションがあり、日系人の労働者が多く住んでいたところ)に住み、
「ワイパフ・モーター社」の営業マンとして働き、
彼の妻、スナは、教師をしていた。
その後、高吹は、生命保険会社や自動車販売店などで営業マンを経験。
四〇年発行の「昭和十五年日布時時布哇年鑑」には
「高吹勇:(出身)香川:(職業)金属売買商」と書かれている。
四七年には、ホノルルに「ダイヤモンド質店」を構え、
質草仲買人として宝石や腕時計、置時計などを売買。
四九年には「ヴィクトリー宝石店」と改称して店舗を移転。
さらに五〇年頃、今度は輸入業に転換。
おそらくその頃「ヴィクトリー・インポート社」を設立して、
各種雑貨の輸入と卸しを行うようになったのだろう。

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(筆者コレクションより)

五二年頃から、エドウィン・マミヤという人物を総支配人として雇用。
五四年頃には「イオラニ」をケイジ・カワカミに営業譲渡
(カワカミは「ザ・イオラニ・カンパニー」、
のちの「イオラニ・スポーツウェア」を設立する)。
五五年には日本に移住した
(同年、エドウィン・マミヤは「リーフ・スポーツウェア」の支配人となる)。
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』51~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●不思議な因縁を感じさせるアロハシャツに出会った [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●不思議な因縁を感じさせるアロハシャツに出会った

 さて、二〇〇一年八月に大阪と京都に短期滞在した時、
実はちょっと不思議なことがあった。
大阪での取材を終えた僕は、せっかく大阪まで来たからと、
アメリカ村にある古着屋をまわって、ヴィンテージ・アロハを物色することにした。
すると、何軒かまわったうちの一軒で、
高吹勇が経営していた「イオラニ」の古いアロハシャツが売られていた。
それは壁縮緬の和柄で、コンディションはとてもよかった。
値段はそこそこ高かったが、それでも相場よりは安めに設定されていた。
買おうか買うまいか、かなりの時間悩んだ。
が、結局買わず、宿を取った京都へ向かった。

 そして翌日の夕方。府立資料館での資料探しを終えて、京都駅へ向かう途中、
列車の時間にはまだ早かったので、河原町界隈にある何軒かの古着屋に立ち寄った。
するとその中の一軒で、再び「イオラニ」の、別の古いアロハシャツに出会った。
これもまた壁縮緬の和柄だった。さすがにこの時は驚いた。
というのも、そのほんの一時間ほど前まで、
高吹勇の京都での足跡を調べていたばかりだったからだ。
しかも、彼が手掛けていた「イオラニ」のアロハシャツは作られた数が少なかったせいか、
それまで古着屋では滅多にお目にかかったことがなかった。
そんな珍しいシャツに二日続けて出会ったのだ。
そんな偶然はごくまれにしか起こりそうもない。
「これは、高吹の魂に呼ばれているのかもしれない」。
僕は非科学的なことをまったく信じない性格なのだが、
ついそんな愚かなことが頭をかすめた。
それくらい不思議な出来事のように僕には思えたのだ。

 高吹勇が、自分でプリント工場を立ち上げるよりも前の時代に、
京都で生地にプリントさせ、それをハワイでシャツに仕立てさせた、
「イオラニ」のアロハシャツ。それが、約五〇年の時を経て、
再び京都に舞い戻って売られているという不思議さ。
なのにそんなことには誰も、
お店で売っている人を含めて誰も気づいていないだろうという不思議さ。
この奇妙な因縁に気づいているのは、
広い世界でおそらく自分だけだろうという、ささやかな優越感。
そんなことをあれこれ考えていると、
そのシャツを買うのは自分しかいないという気持ちになってきた。
それは、大きなもみじの柄の、比較的地味な、壁縮緬のアロハシャツだった。
値段は少し高かったが、僕は思いきってそのシャツを買うことにした。
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『ヴィンテージアロハシャツ』50~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●アロハ貿易は一九六〇年頃まで アロハシャツを作った?(その2) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●アロハ貿易は一九六〇年頃までアロハシャツを作った?(その2)

(その1から続く)
 これらの記述から、アロハ貿易は、何度か移転して、
一九六二年(あるいはそれ以降)まで営業していただろうということがわかった。
ただしそれは、カリフォルニアのハラさんから聞いた話と少し食い違っている。
ハラさんが「ゴー・ベアフット」を始めた理由の一つは、
一九六〇年に「義父が亡くなって、
シャツが送られてこなくなったため」だと言っていたのだ。
もし高吹が死去したのが一九六〇年で、
それ以降はアロハシャツを作っていなかったというのが本当なら、
六〇年以降は、(アロハ貿易という会社があったことはわかっているのだから)
高吹の妻かそれ以外の第三者が経営を引き継ぎ、
でもアロハシャツはもう作っていなかった、ということになる。
それはちょうど、「六〇年頃を境に、
アロハシャツはレーヨン製からコットン製に変わっていった」という一般的な傾向や、
「『パリ・ハワイアン』のアロハシャツはほとんどがレーヨン製で、
コットン製はほとんどない」という事実とも重なってくる。
やはりアロハ貿易は、一九六〇年までしか、アロハシャツを作っていなかったのだろうか?
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『ヴィンテージアロハシャツ』49~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●アロハ貿易は一九六〇年頃まで アロハシャツを作った?(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●アロハ貿易は一九六〇年頃までアロハシャツを作った?(その1)

 同じ年の八月、大阪で、ある仕事を終えた帰りに、
一日だけ時間ができたので、京都に立ち寄ることにした。
この時は、京都貿易協会という団体の事務所を訪れた。
そこには会員名簿はなかったが、毎年海外向けに発行されていた
「ザ・ガイド・オブ・キョウト」という会報誌があったので、
それを閲覧させてもらった。
じっくり読んでみると、アロハ貿易に関する記述がいくつか見つかった。
またまた大きな前進だ。僕は読んでいてワクワクした。
少し細かい話になるが、その記述の移り変わりをここに書き写しておこう。

 アロハ貿易の名前は、一九五七年(昭和三二年)五月に刊行された
「五七年版」に初めて登場する。住所は「右京区西院高田町一〇番地」。
カリフォルニアで書き写してきたのと同じ場所だ。
取扱品目は「織物、綿・レーヨン・絹のハンド・プリント生地とその完成品、磁器」。
「五八年版」では、「左京区川端二条上ガル」に移転。
「綿及びレーヨンのプリント生地全般、日本の装飾品全般、東洋の服飾全般の輸出」
を行っていた。
「五九年版」は本が見当たらず不明だが、
「六〇年版」と「六一年版」では、
「綿・レーヨン・絹のハンド・プリント生地と、
アロハシャツ、水着、キモノ、ハッピ・ジャケット、ガウンなどの完成品の輸出及び製造。
生地、織りネーム、竹ボタン、日本の装飾品と磁器の輸出」と書かれている。
「六二年版」では、住所は「神戸市葺合区八幡通五-六-七」となるが、
事業内容は六〇、六一年と同じ。
そして「六三年版」では記載そのものがなくなっていた。
(次回に続く)
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