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ライトニング別冊ハワイ本~「アロハシャツの歴史」その6 [ライトニング]

2003年3月発行 ライトニング別冊ハワイ本 掲載
「アロハシャツの歴史」その6

(その5から続く)

 その60年代の流れを見ていこう。
まず61年にはコットン・サテンのタパ柄や
綿のハイビスカス柄などが発売されている。
62年にはワンポイントのプリント柄や胸の刺しゅう柄などが
新しい傾向として出てきており、
生地では綿のアボカド・クロスやラヴァ・クロス、
コットン・レーヨンのセラノ・クロスなど、
光沢感や素材感に新しさのあるものが続々登場している。
また、後のアロハシャツのデザインに多大な影響を与えることになる、
プルオーバーでボタンダウンのタイプ(柄はタヒチ柄)が
レインズ・メンズウエアから発売されたのも、同じ62年のことだ。
63年になるとダクロンが新素材として注目され、
胸に刺しゅうが入ったダクロン・コットンのシャツなどが出てきた。
64~65年にはバティック、タパ、パレオ、パイナップルなどの柄がリバイバル。
65年にはボタンダウン型が定着し、
リバース・プリントが新たに登場して「新しいのに古く見える」と紹介されている。
またエリなしのヘンリーネックシャツがサーフシャツという呼び名で流行し、

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(筆者コレクションより)

ジャムズの原色花柄シャツが出てきたのもこの年だ。
68年にはコットン・ピケが流行し、
70年頃から原色使いの大柄やポリエステル素材が登場した。

 ここで改めて現在のアロハシャツを見ると、
この60年代の傾向がいかに反映されているかがわかるだろう。
(終わり)
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ライトニング別冊ハワイ本~「アロハシャツの歴史」その5 [ライトニング]

2003年3月発行 ライトニング別冊ハワイ本 掲載
「アロハシャツの歴史」その5

(その4から続く)

レーヨンは洗濯によって色あせしやすいため、60年代には主に綿が使われるようになった。
柄はタパやハイビスカスのような単純なものがリバイバル。
リバース・プリントやボタンダウンなど素材感やデザインに変化も。

 レーヨン製のアロハシャツは50年代前半に頂点を極めたと言えるだろう。
色がきれいで柄が独創的で、
生地もレーヨンの羽二重やチリメンという質の高いものを使っていたという意味において。

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(The Hana Shirt co.のHPより引用)

そのため現在、ヴィンテージ・アロハと呼ばれて珍重されているのである。
ところがその繁栄は長くは続かなかった。
50年代後半になると、まずレーヨンの質が下がっていく。
チリメンや羽二重は影を潜め、代わって、コストを抑えるためか、
ゴワつきのある安価なレーヨンを使ったシャツが増えるのだ。
ただそれでもまだ柄自体には美しいものが多かった。
しかし60年代に入ると、レーヨンのアロハシャツは、
売値を安くするために、プリントだけでなく縫製まで日本で行った
「メイド・イン・ジャパン」のものが増えていく。
このタイプではペニーズのものが有名だが、それはまだクオリティの高い方だ。
別の日本製シャツの中には、
日本でのプリントの工賃が上がりコストを下げようとしたためか
色数を少なくしたものや、
また安く抑えるためかあるいは単に技術レベルが下がったためか、
型彫りの質が下がり、柄が繊細でないものが多く見られる。

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(筆者コレクションより)

柄自体も以前のものを焼き直ししただけのような、独創性の乏しいものが増えていった。

 いやそのようなクオリティの低下よりもはるかに重要なのは、
60年代に入るとレーヨンが急速に使われなくなり、
それに代わってほとんどが綿地で作られたという事実だ。

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(筆者コレクションより)

レーヨンという素材は柔らかな素材感と鮮やかな発色が特長なのだが、
洗濯に弱く、色があせやすいという欠点を持ち、それが人々に嫌われたのだ。
(次回に続く)
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ライトニング別冊ハワイ本~「アロハシャツの歴史」その4 [ライトニング]

2003年3月発行 ライトニング別冊ハワイ本 掲載
「アロハシャツの歴史」その4

(その3から続く)

 戦後、ハワイの産業や観光業をテコ入れするため、
毎年10月に「アロハウィーク」というイベントが催されるようになった。
その際、「期間中は伝統的な(実際は十数年の歴史しかないのだが)
アロハシャツを着よう」という呼びかけがなされた。
また47年頃には、冷房のない官庁や企業で働く人々が、
アロハシャツを職場で着ることを許可してほしいと各地で運動を起こし、
それが次第に認められていった。
この二つの出来事によってアロハシャツは、
観光客向けの単なるみやげ品から、地元の人も着る実用品へとその性格を変えていく。
それと共に柄も、ハワイの観光名所や風物をたくさん盛り込んだ「おみやげ柄」から、
普通に着られそうなタパ柄や花柄、風景柄へと移行していった。

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1302.jpg
(The Hana Shirt co.のHPより引用)

そのような柄の多様化に応えるために、
50年前後には本土から多くの絵描きがハワイに移り住み、多種多様な柄を提供した。

 さらに柄が多様化するのは、
復興期の日本、主に京都のプリント生地が入るようになってからである。
51年に平和条約が結ばれ、日本からの生地の輸入も解禁された。
特に52~53年頃には日本の生地を使った和柄のアロハシャツが大量に作られ、
柄の斬新さ・珍しさから人気化した。
それは例えば鷲、虎、龍などの動物や、ハワイや日本の写実的な風景の柄だ。

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(筆者コレクションより)

一般的にアメリカの工場は、
大量生産に適した、原色中心の抜染を得意とするのに対して、
日本は和服の捺染で培った、繊細なタッチと陰影のある
多色使いによるオーバープリントを得意としていた。
中には20色以上使った、驚異的な技による鮮やかな柄もあるほどだ。
しかも工賃が安く、少ない量でも注文に応じるなど、好まれる理由は多かった。

 こうして50年代前半に独創的な色や柄のものが数多く作られ、
アロハシャツは黄金期を迎えるのである。
(次回に続く)
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ライトニング別冊ハワイ本~「アロハシャツの歴史」その3 [ライトニング]

2003年3月発行 ライトニング別冊ハワイ本 掲載
「アロハシャツの歴史」その3

(その2から続く)

アロハシャツは戦後、観光客だけでなく地元市民も普段着として着るようになって、
より発展を遂げる。50年代前半には日本から質の高いプリント生地が大量にもたらされ、
和柄が再登場する。こうして黄金時代を迎えるのだ。

 1930年代中頃の、初期のアロハシャツは、個々の店が作って売るものだった。
生地は和服や布団用としてすでにあるものを使い、
主に日系女性が、家で内職仕事をしたり、
店の奥や二階に設けられた作業場で働いたりして作ったものだ。
それが30年代後半には、需要の増大と共に、
ブランフリート社とカメハメハ社が36年に、
ロイヤル・ハワイアン社が37年にそれぞれ操業を始め、
独自の柄を起こしてプリント生地を発注し、
工場で大量に縫製して店に卸すというスタイルへと変わっていった。
最大手のカメハメハ社は、39年には125台の機械と
150人以上の従業員を擁するほどの規模を誇っていた。

 ところが第二次世界大戦が始まると、
メーカーは主に軍需製品の生産をするようになり、
またプリント生地がハワイに入ってこなくなったため、
華やかな色や柄のアロハシャツはほとんど生産されなくなった。
かろうじて小さなメーカーが、あり合わせの綿生地などに、
「ハンドブロック・プリント」という版画のような手法で
素朴なプリントを施してシャツを作り、
それをみやげ物店が駐留海軍兵士向けに売っていた程度だ。

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(1942年刊行の雑誌に掲載された写真。筆者コレクションより)

(次回に続く)
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ライトニング別冊ハワイ本~「アロハシャツの歴史」その2 [ライトニング]

2003年3月発行 ライトニング別冊ハワイ本 掲載
「アロハシャツの歴史」その2

(その1から続く)
 「34~35年説」のもう一つの根拠は、唐突なように聞こえるかもしれないが、
34年7月26日に、ルーズベルト大統領がハワイを訪れたことである。
当時彼は全米で人気があり、ハワイでも熱烈に歓迎され、新聞の特別号も発行された。
そこには、「大統領歓迎」という文字と、
会社名や店名とを組み合わせた広告が多数掲載されている。
その紙面で「歓迎」の意味に使われている言葉が「アロハ」だ。
そして統計にも表れていることだが、
大恐慌により低調だった経済が34年から上向き、本土からの観光客も増え始めている。
またパンナムがアメリカ西海岸とハワイを結ぶ小型飛行機便を就航させたのが
翌35年4月のことだ。
こうして「アロハ」が、大統領の訪問をきっかけに、
観光業界の流行語になったとしても不思議ではない。
実際、「アロハティーセット」や「アロハコースター」というみやげ品もあったくらいだ。
そのような時代背景を考えると、
34年後半から35年前半頃、それまで名前の付いていなかった派手な和柄のシャツが、
観光客を「歓迎」するという意味を込めて「アロハシャツ」と命名され、
みやげ品としてダウンタウンの店々で売り出されたという話も真実味を帯びてくる。
35年にはビング・クロスビーも来島し、アロハシャツを買っている。
彼が持ち帰った結果、
30年代後半のハリウッドではお洒落な服と見なされるようになり、
映画スターがハワイを訪れては買っていった。
そしてハワイを訪れる一般観光客にも人気のみやげ品となっていく。

 ところが38~39年頃、熱帯の花やサーファー、フラガールといった
ハワイ風の柄が登場する。

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(1940年刊行の雑誌に掲載された写真。筆者コレクションより)

日本調の柄が飽きられたのか、ハワイらしくないと思われたのだろう。
リゾート気分にあふれたハワイ柄の生地をわざわざ新しく作っても元が取れるほど、
アロハシャツは大量に作られ、一般的になったということだ。
こうしてハワイ的な柄が主流になるのである。
(次回に続く)
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ライトニング別冊ハワイ本~「アロハシャツの歴史」その1 [ライトニング]

お正月休みを少々長めにとってしまい、間が空いてしまいました。
このブログを楽しみにしてくださっていたごく数人の方、ごめんなさい。
大変お待たせいたしました。

本日からは、枻文庫『ヴィンテージ・アロハシャツ』以外に、
筆者が雑誌に過去に寄稿した、アロハシャツ関連の文章を再録いたします。
歴史などをコンパクトにまとめた文章なので、
昨年このブログで再録した、枻文庫『ヴィンテージ・アロハシャツ』よりも
わかりやすいかもしれません。
(内容的に多少重複する箇所もありますが、ご了承ください)

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2003年3月発行 ライトニング別冊ハワイ本 掲載
「アロハシャツの歴史」その1

アロハシャツは、もともとは日系人が子供のために作った着物のリサイクル・シャツ。
それが1934~35年頃、命名され、みやげ品として売られるようになり、
38~39年頃に、ハワイ柄の生地で作られるようになったのだ。

 アロハシャツは、ハワイに渡った日系人の生活の中から生まれたものだ。
おそらく、着古して擦り切れた着物を有効に活用するため、
使える部分だけ切って子供用のシャツに仕立てたのが最初だろう。
自然発生したものだから、いつ誰によって発明されたのかはわからない。
しかし、商品として売られるようになったのは1934~5年頃だと推測される。

 その根拠としてまず挙げられるのは、武蔵屋商店という生地店が
35年6月28日付のホノルル・アドバタイザー紙に出した広告である。

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そこにはアロハシャツという言葉が、
現在見つけうる限りでは歴史上最初に文字として登場しているのだ。
残念ながら、そこには写真もイラストも添えられていないので、
どんな色と柄だったのかは、今となってはわからない。
しかし「美しいデザイン、晴れやかな色」と書かれていることからも、
おそらく和服の生地を使った、和風柄のシャツだったのであろう。
商品としての初期のアロハシャツが和服柄だったという事実は、
36~37年頃に撮影された写真にいくつか出てくることでも裏付けられる。

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(1937年刊行の雑誌に掲載された写真。撮影はおそらく1936年。筆者コレクションより)
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