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『ヴィンテージアロハシャツ』48~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●京都に行って調べたら、アロハ貿易の詳細がわかってきた(その2) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%BD%A4/dp/4777903990

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●京都に行って調べたら、アロハ貿易の詳細がわかってきた(その2)

(その1から続く)
 この記述は大きな進展だった。
タカブキが「二重国籍だった」とハラさんに聞いていたので
てっきり二世だと思っていたが、
実際は高松で生まれ、八歳の時(おそらく家族と一緒に)ハワイに渡った一世だったこと、
戦後、先祖か両親かの墓参りのために帰国した際にアロハシャツに目を付け、この世界に入ったこと、彼の名は漢字で「高吹勇」と書くことなど、
ハワイやカリフォルニアではわからなかったことがいろいろわかったからだ。

 また、ハワイでの販売先が五軒だったという事実も興味深い。
五軒というのはどこのことだろう? 僕はこの記述に想像をかき立てられた。
まず「ハレ・ハワイ」や「サーフライダー」はその五軒に含まれるだろう。
というのも、この二つのブランドは、「パリ・ハワイアン」と共通の、
もしくはよく似たタイプのハワイ柄の生地を使っていたことがわかっており、
それはおそらくアロハ貿易から買ったものだろうと思わせるからだ。

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(筆者コレクションより)

また、「イオラニ・スポーツウェア」もおそらくその五軒に含まれるだろう。
なぜなら、「イオラニ」ブランドをタカブキから譲り受けて
営業を引き継いだという経緯があり、
プリント生地もアロハ貿易から調達したと考えるのが自然だし、
絵のタイプも、「パリ・ハワイアン」のものとは多少違うが、
「壁縮緬のハワイ柄」という意味では共通するものを感じさせるからだ。

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bcbhy858-img450x600-1309855459hglz0118436.jpg
(筆者コレクションより)

しかし残りの二軒は、想像するのが難しい。
ハワイのアロハシャツ・メーカーの中で、
「パリ・ハワイアン」と似た柄のシャツを作っていたところはほかになさそうだからだ。
もしかしたら、プリント生地を卸したメーカーというよりも、
日本で縫製した「パリ・ハワイアン」のシャツを卸した小売店なのかもしれない。

 ともかくこの時は、このようないくつかの成果を上げて帰京した。
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『ヴィンテージアロハシャツ』47~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●京都に行って調べたら、アロハ貿易の詳細がわかってきた(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%BD%A4/dp/4777903990

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●京都に行って調べたら、アロハ貿易の詳細がわかってきた(その1)

 カリフォルニアで取材した四ヶ月後の二〇〇一年六月、
僕は時間を作って四日ほど京都に出掛けた。
まず京都府立図書館に行ってみた。
関係ありそうな資料を探したところ、
京都貿易協会という団体が発行した「京都貿易戦後二十年」という本を見つけた。
この本には、京都からの輸出品に関する年度別の統計や、
輸出に関係した会社の業務内容などが記載されており、なかなか貴重な本だった。
巻末には、京都貿易協会に所属する会員の、昭和二七年と三一年の名簿が載っていた。
そこを細かくチェックしていくと、その三一年の所属会社名一覧の中に、
「アロハ貿易」の名前があったのだ。少しワクワクした。
会社名と住所というわずか一行の記述だったが、
それは、なんとなく吉兆のように僕には思えた。

 次に、北山にある京都府立総合資料館を訪れた。
ここは、歴史に関する資料や文献類が府立図書館よりも充実していて、
機械染色や友禅などに関するかなり専門的な本も数多く収蔵していた。
いろいろ探しているうちに、「京都商工名鑑」というものを見つけた。
そこには、京都商工会議所に所属していたさまざまな会社の事業内容が
詳しく掲載されていた。
その「昭和三五年(一九六〇年)版」の中に、貴重な記述を発見した。
「アロハ貿易」に関する会社案内が詳しく書かれていたのだ。
「ついに見つけた!」といううれしさで胸がキュウッとなった。
その記述をここに抜き出してみよう。

「アロハ貿易商会 経営主:高吹勇 所在地:右京区西院高田町一〇 
電話:八四-〇九六六 業種:布帛製品輸出業 創業:昭和三〇年四月 
従業員:一六名(男一〇名・女六名) 年商:四一〇〇万円内外 
取扱品:アロハシャツ、ブラウス、ガウン、婦人服地、その他、
ゴムスリッパ、草履、雑貨類 
設備:手捺染台=二五ヤード六台、三〇ヤード五台 
仕入先:大阪=鈴木産業、伊藤万、大阪豊島、岸本商店 福井=協和産業 
神戸=中央化学工業 販売先:ハワイ=五軒、オーストラリア=四軒、
フィリピン=一軒、アメリカ本国=ロサンゼルス・富士輸入、シンガポール=一軒 
代表者:明治三一年(一八九八年)五月高松市生まれ、八歳の折、渡米、
アメリカで教育を受けた一世で、ハイスクール卒業後、
宝石貴金属商に奉公し永年勤務後かなりの資産を蓄積、
戦後墓参の傍ら帰国の際この業に着目し富士輸入を創設すると共に
当商会を併営して今日に及んでいる」
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』46~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●足跡をたどる旅はカリフォルニアから始まった(その3) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●足跡をたどる旅はカリフォルニアから始まった(その3)

(その2から続く)
 僕は、ひととおり聞いたあと、気になっていたイサム・タカブキのことを尋ねた。
「義父は二重国籍だったので、終戦直後から、
ハワイと日本の間を頻繁に行ったり来たりして商売をしていました。
最初はハワイに『ヴィクトリー・インポート』という輸入会社を作り、
その数年後には『イオラニ』という衣料品製造会社を始めましたが、
その『イオラニ』は五四年にケイジ・カワカミに売りました。

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(筆者コレクションより)
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(筆者コレクションより)

そして五五年頃、京都にあった古い校舎を買い取り、
『アロハ貿易』という手捺染のプリント工場を作ったんです。
敷地内にはドミトリーもあって、
従業員はそこに住み込んで生地のプリントをしていました」

 アロハ貿易が京都のどの辺にあったのかと尋ねると、
ハラさんは、一枚の封筒を探して持ってきてくれた。
それは、アロハ貿易が当時使っていた封筒で、
そこには住所と電話番号が印刷されていた。
「京都市右京区西院高田町一〇番」。
それを見て、僕は鳥肌がたった。
「アロハシャツのプリントの一部は京都で行われていた」という事実の確証を
ようやく得られたからだ。「プリント京都説」は、それまでも、
人から聞いたりハワイの古い資料で読んだりしたことがあったので知ってはいた。
しかし、どこの何という会社でプリントされていたかといった具体的なことは、
それまで一切わからなかった。
そのような行き止まりの状況にあったから、
「アロハ貿易の住所」がわかったことはとても嬉しかった。
この住所があれば、京都での調査が進展しそうな気がしたのだ。
僕は、アロハシャツのことを調べ始めた最初から、
「日系人とアロハシャツ」をテーマにしてきたわけだが、
それまでは「ハワイの日系人」に関することが中心で、
「日本や京都との関わり」はなかなか見えなかった。
その接点がようやく見えてきたのだ。それもカリフォルニアという意外な場所で。
ともかく僕は、アロハ貿易の住所をメモし、
アロハ貿易とイサム・タカブキという二つの名前を胸に刻みつけた。
そこから、この日系人の半生を追う取材は始まったのだ。
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『ヴィンテージアロハシャツ』45~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●足跡をたどる旅はカリフォルニアから始まった(その2) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●足跡をたどる旅はカリフォルニアから始まった(その2)

(その1から続く)
 ここでまず、「パリ・ハワイアン」というブランドのことがいろいろわかった。

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(筆者コレクションより)

このブランドのシャツに、ハワイの風景柄や原色を多用した独特の配色が多いのは、
日本ではなくカリフォルニアでデザインされたからだったのだ。

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(筆者コレクションより)

また、プリントと縫製は日本で行われていたこと、
素材は壁縮緬やフジエットが主体だったこと、
「カイマナ・ハワイアン」という兄弟ブランドが存在することなどもわかった。
そして何より、このブランドのシャツを作っていたのが、
イサム・タカブキという名の彼の義父であることを知った。

「ある時、マジックという大きな見本市があることを聞きつけ、
そこに出展しようとしました。ところが、私が扱っていたのが日本製だったため、
『輸入物はダメだ』と出展を拒否されてしまいました。
その見本市には、アメリカ製、特にカリフォルニア製でないと出展できなかったんです。
そこで六〇年に、『ゴー・ベアフット・イン・パラダイス』というブランドを立ち上げ、
製品はすべてカリフォルニアで作って出展しました。

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(筆者コレクションより)

また会社名も、五七年の設立以来『フジ・インポート』でしたが、
私はそれが気に入らなかったので、出展を機に『ミスター・ハワイ』に変えました。
六〇年以降は、花柄などのハワイ風の生地をハワイのコンバーター経由で日本から輸入し、
カリフォルニアで製品化しています」
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』44~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●足跡をたどる旅はカリフォルニアから始まった(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●足跡をたどる旅はカリフォルニアから始まった(その1)

 僕はアロハシャツの歴史を調べているうちに、
ある一人の日系人に、とりわけ興味を覚えるようになった。
その人の半生をもっと詳しく知りたいと思うようになった。

 きっかけとなったのは、二〇〇一年にロサンゼルスで、ミスター・ハワイ社
(「ゴー・ベアフット」ブランドのメーカー)の社長クラランス・ハラ氏に
話を聞いたことだった。彼は、アロハシャツのビジネスを始める前は、
衣料品とまったく無関係の仕事をしていたのだが、
妻の父に誘われたことからこの世界に入ったという。
その義父こそが、僕がその後、興味を持って調べるようになった人物、
イサム・タカブキだ。

 ここではまず、ハラさんが
「ゴー・ベアフット」を始めるまでのことを紹介しておこう。

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(筆者コレクションより)

「私はハワイで生まれ育ち、若い頃はサーフィンをして遊んでいました。
高校を出て軍隊に入り、除隊して大学に行き、
卒業してからは衣料品とは関係のない仕事につきました。
そして五四年にハワイからカリフォルニアに来ました。
タカブキの娘と駆け落ちしてきたんです。そしてこちらで結婚しました。
そんな時、義父がアロハシャツのサンプルを送ってきて、
『それを売ったらどうか』と言ったんです。
当時私は政府の仕事をしていて、週末に時間を取れる環境にありました。
そこで時間のある時に店をまわって、直接アロハシャツを売り込んだわけです。
店と言っても、サーフ・ショップなんていうものはまだできていない時代です。
その頃は、ハワイ風の商品を売る"ハワイアン・ショップ"というのがあったんですが、
主にそういう店をまわりました。そんなことを五四年から始めて、
だんだんと売れるようになってきたので、政府の仕事を辞め、
五七年に『フジ・インポート(富士輸入)』を設立して、
本気で売るようになったわけです。
五七年から、すべてのシャツは義父のやっていた『アロハ貿易』で作られたものを、
日本からハワイ経由でカリフォルニアに輸入していました。
そのレーベルは『パリ・ハワイアン・スタイル』と
『カイマナ・ハワイアン・スタイル』の二つでした。

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(筆者コレクションより)
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(ヤフオク出品ページより)

生地はレーヨンのカベ・クレープ(壁縮緬)やフジエット、
柄は明るい色のハワイアン・プリントがほとんどで、
和柄はほんのわずかしかありませんでした。
『パリ・ハワイアン』のシャツは、
デザインは基本的にカリフォルニアでしていましたが、
プリントと縫製はすべて日本で行っていました」
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』43~第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その4) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
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第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した
●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その4)

(その3から続く)
 細見さんは、当時の名門校に通い、
カットのデザインをやりたいと夢見ていたという。
ところが、たまたま友禅の絵を描く「塾」に入り、
たまたまアロハシャツの柄を描くようになった。
時代の流れを映したような彼の人生が、僕にはとても興味深かった。
失礼だと思って聞けなかったが、細見さんも最初のうちは、
友禅の本流ではないアロハシャツの仕事を
あまり好ましく思っていなかったんじゃないだろうか? 
でも描き続けるうちに、やりがいを見出していったんじゃないだろうか? 
僕は今、そんな風に想像している。

 細見さんに会った当時の僕は、
アロハシャツのことをまだほとんど知らなかったから、
的確なな質問もできず、深い話を聞くことなく取材は終わってしまった。
そして日本では細見さん以外の絵描きさんには会えずにいる。
あの時もっといろいろなことを聞いておけばと、今さらながら悔やんでいる。
細見さんにもう一度会う機会があれば、
「アロハシャツの柄を描く仕事は楽しかったですか?」と訊いてみたい。
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『ヴィンテージアロハシャツ』42~第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その3) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した
●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その3)

(その2から続く)
「ハワイへ行く前は日本調の絵、特に風景画をよく描いていました。
でも、帰国した後はハワイでスケッチしてきた花や風景などを
主に描くようになりました」

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(細見氏コレクションより)
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(筆者コレクションより)

 これはとても貴重な証言だ。アロハシャツを扱っていた商社が、
主に和柄を描いていた細見さんに、新たにトロピカルな柄を描いてもらうため、
風物を実際に見てもらおうとハワイへ招待したと推測できるからだ。
確かに、日本でプリントした生地の変遷を見ると、
和柄は五〇年代前半に流行していたが、

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(筆者コレクションより)

だんだん人気が衰え、
代わって五〇年代後半には、トロピカルな柄が主流になっていった。

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(筆者コレクションより)

それは、当時の新聞に掲載されたアロハシャツの広告や
街の人のスナップ写真を見てもわかる。
もっとも、細見さんが描いていた日本調の風景柄は、
日本でプリントされ、日本でレーヨン・アロハに仕立てられ、
シアーズやペニーズなどのレーベルを付けられて、
ハワイではなくアメリカ本土に輸出されたわけだから、
ハワイでの流行とは少し違うかもしれない。
しかし本土でも、多少のタイムラグはあっても、
似たような流れだっただろう。
そう考えるなら、シアーズやペニーズなどの、
日本調の風景柄のレーヨン・アロハも、ハワイでの和柄アロハと同様、
五〇年代前半から半ば頃の製品だったと言えるんじゃないだろうか? 
それらは、ハワイ製の和柄に比べてプリントがややチープだし、
枚数も大量に残っているため、これまでは六〇年代の製品だと言われてきた。
しかしもう少し前に作られたものだったと考えられるんじゃないだろうか?
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』41~第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その2) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した
●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その2)

(その1から続く)
 僕は、細見さんが描いた古いデザイン画も見せてもらった。
そこには、波しぶきの上がった川や滝を背景にして、
松などの木々や鷲などの鳥が描かれていた。

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(細見氏コレクションより)

それらは、シアーズ・ローバックやJ.C.ペニーズといった
アメリカ本土の量販店のレーベルが付けられた和柄アロハで見られる柄だ。
この波しぶきについて細見さんが教えてくれた。

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(細見氏コレクションより)

「この部分には、友禅で『ぼかし』と呼ぶ技法が使われています。
アメリカ人は普通、ポスターカラーを使ってデザイン画を描いているんですが、
それでぼかすのは難しいんです。だからぼかした波があったら、
その絵は日本人が描いていたと言っていいでしょうね」

 これは、前に説明した「糊防染」を使った技法のこと。
そこで紹介したパリ・ハワイアンの「ハワイの風景柄」にも
同じような波が描かれている。

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(筆者コレクションより)

 細見さんは、絵を依頼される場合、
「こういう柄が流行しているから、同じようなものを描いて欲しい」と
言われることが多かったそうだ。その注文も、
ハワイのメーカーから直接来るわけじゃない。
コンバーターと呼ばれるハワイ側の商社や日本側の商社を経て、
京都の生地問屋から来るのが普通だった。
アロハシャツの生産と流通が非常に分業化されていたからだ。
そのため、描いた絵が、どこでどういう風にプリントされるかや、
最終的にどこのメーカーに卸されるかはほとんど知らされないし、
できあがったシャツを見る機会もまずない
(この点は、アメリカでも似たようなものだったらしく、
同様の話をジョン・メイグス氏からも聞いた)。
またコンバーターや商社、プリント工場などの流れもグループ化されていて、
細見さんはほとんどの場合、商社は東洋棉花(現在のトーメン)、
生地問屋は矢守商店というところから仕事を受けていたという。
その関係から、一九五五年に東洋棉花の招きで約一ヶ月半、
五九年には矢守商店の招きで約三ヶ月間、ハワイに滞在し、
ハワイの風物をスケッチしたりお店で売られているアロハシャツを見たりしてきた。
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』40~第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した●日本のプリント・デザイナー 細見豊(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

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枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
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第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した
●日本のプリント・デザイナー 細見豊

 ヴィンテージのアロハシャツはアートだ。
多くのシャツを見続けるうちに、そんな風に思えてきた。
シャツという形や南国風のモチーフなど、さまざまな制約があるにもかかわらず、
どれも非常に個性的なのだ。
しかし、売られていた当時は誰もアートだなんて思っていなかっただろう。
見て楽しむものというよりは、単に日常的に着るものとして扱われたはず。
実際、柄を描いていたのも、人材がいなかった最初期を除けば、
著名な画家などではなく、職人的扱いを受けたプリント・デザイナーだった。
彼らは自分の描きたいものを描きたいように描くのではなく、
注文主の希望に添うように描くことが求められた。
だから誰がどんな柄を描いたかはもちろん、名前さえも記録に残っておらず、
今、消息をたどるのはとても難しい。
当時を知る人に名前や居所を教えてもらうしかないのだ。
わからないからなおさら、どんな人が描いていたのかが僕はとても気になる。

 実は、アロハシャツの取材を始めてすぐの一九九七年一月、
一度だけ日本の絵描きさんに会ったことがある。その人の名は細見豊さん。

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(細見氏コレクションより)

一九一八年(大正七年)兵庫県生まれ。
四二年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)図案科を卒業して
高校の美術教師になるが、体をこわして退職し、療養生活を送った後、
五三年から、京都にあった友禅の図案家の工房
(この業界では「塾」と呼ばれる。「仕事をする場所」というよりも
「学ばせてもらう場所」というニュアンスなのだろう)で働き始めた。
そこには六~七人の兄弟子がおり、みな友禅の絵を描いていた。
その中で細見さんは、アロハシャツに使うための日本調の絵を描く仕事を任された。
ハワイでは、日本との貿易が再開された一九五〇年頃から和柄が急速に、
そして数多く発売されるようになり、誰もが着るほど流行していた。

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(細見氏コレクションより)

その結果、京都に和柄アロハの注文がたくさん舞い込み、
友禅の図案を描いていた工房にまで仕事が回ってきたようだ。
ところが当時、アロハシャツの柄を描く仕事は、
伝統的な和装用の友禅の柄を描く仕事よりも格下に見られていた。
だから、細見さんのいた工房でも、本業の友禅の仕事が少ない時期に、
おそらく消極的に、つまり仕事をしないより少しはマシといった感じで、
請け負っていたのだろう(この「不本意」という意識は、絵描きだけでなく、
プリント工場関係者など、アロハシャツに関わったほとんどの人が抱いていたようだ。
そのためアロハシャツの仕事をしていたことをみな認めたがらず、
当時の事情を語ってくれる人もなかなか見つからない)。
そういう、あまり気乗りのしない仕事だったため、細見さんのような若手に、
腕試しのような形で回ってきたとしても不思議じゃない。
(次回に続く)
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『ヴィンテージアロハシャツ』39~第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した●「コンバーター」は大切な仕事(その4) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%BD%A4/dp/4777903990

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第四章 「アロハシャツ秘話」をたくさん聞き出した
●「コンバーター」は大切な仕事(その4)

(その3から続く)
「繊維の輸入が成功したのは、
品質の優れたものを適切な値段で売ったからだと思います。
品質に関してはやかましく言って日本に突き返したりもしましたから。
また京都なら、アメリカの一〇分の一の分量から注文を受けてくれましたし、
日本のは洗濯できるものだったというのも、好まれた理由でしょうね」

 重村さんは、一九五〇年代後半には
カベ・クレープ(壁縮緬)の輸入に力を入れていた。
日本製のこの生地は、品質が良く、それほど高価でもなく、洗濯もできたために、
その当時、多くの人に好まれ、アロハシャツに多用されたのだと、
重村さんの話からよくわかった。また別の人からは、
「カベ・クレープは、表面に凹凸があるから、
レーヨンの羽二重やフジエットなどに比べて、肌触りがさらっとしていて、
その気持ちよさがハワイの人に好まれた」という話も聞いたことがある。
カベ・クレープは、アロハシャツの生地としては
かなり優れたものだったと言っていいだろう。

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(筆者コレクションより)
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