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『ヴィンテージアロハシャツ』54~第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その1) [枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』]

しばらくは、2005.10.6発売/現在品切れ の拙著 
枻文庫『ヴィンテージアロハシャツ』から、
文章を再録します。

https://www.ei-publishing.co.jp/magazines/detail/lightning-c-401979/

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E6%BD%A4/dp/4777903990

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第五章 日系人タカブキの半生を解き明かしたい
●高吹勇の半生を、勝手に想像してみた(その1)

 ひとまずこの辺で、高吹勇の半生を、
いろいろな人の話やさまざまな資料をベースにしつつ、
多少は僕の想像を交えて、整理してみようと思う。

 一八九八年に高松市で生まれ、八歳の時、家族に連れられてハワイに渡る。
高校を卒業した後、宝石貴金属商に奉公。
独立後は自動車ディーラーのセールスマンなどさまざまな職業を経験する。
四〇年代後半には質店や宝石店などを経営。
その傍ら、戦後すぐから先祖の墓参りをするために帰国し、
その際、日本のさまざまな雑貨をハワイに輸入することを思いつき、
ハワイと日本を頻繁に行き来するようになる。
特にアロハシャツは、自分でも作れないかと考え、
京都でいろいろな問屋や染工所を回ったことだろう。
幸い京都は戦災を免れたため、染色業界もすぐに復興していた。
ただ、アロハシャツのことなど見たことも聞いたこともないという
問屋や染工所の人々を説き伏せて作ってもらうのには苦労も多かっただろう。
でもなんとか協力者を見つけだした。
最初のうちはオリジナルのプリント生地など作れないから、
すでにあった広幅のキモノ柄のプリント生地を調達し、
それをシャツに仕立てて、ハワイへ輸出したのだろう。

227.JPG
(筆者コレクションより)

当時はまだハワイと日本との貿易が自由化されていなかったから、
和柄のアロハシャツは非常に珍しかったはずで
(和柄アロハが数多く作られ流行するのは、一九五一年以降だ)、
少しぐらい高くても売れただろう。
(次回に続く)
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