ハワイの新聞記事から その74 1939 ハワイの衣料品産業(10) [ハワイの新聞記事から]
筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
現在は、『ホノルル・アドヴァタイザー紙』に掲載された、
1939年の記事を翻訳しています。
内容は、ハワイの衣料品産業に関する文章です。
ハワイの衣料品産業(10)
文/ローナ・アーレン
ブランフリートの重役の1人、ナット・ノーフリートによれば、
本土のバイヤーたちは、ハワイからもたらされる服について
全くもって途方もない考えを持っているという。
「最も大きい店舗のバイヤーでさえ、
ハワイのスポーツウェアは、浜辺にある、草でできた粗末な小屋に住む
原住民たちが作っていると考えているのです。
本土の、あるビジネスマンは、
プリントの染色は原住民の女性が足で生地に型押ししていると
思っているとさえ聞きました。」
「彼らは、ハワイの水にはミネラル分が入っていないという、
また別の奇妙な考えも持っていて、
それだからハワイのプリントは鮮やかなんだと言うのです。
ある店は、ワイキキから飛行艇(訳注:水面発着できる機体を持つ飛行機)で
砂を送ってもらうのに30ドルの速達料を払いました。
私たちは、送るのに十分見た目のきれいな砂を手に入れるために、
島の反対側まで行かなくてはなりませんでしたよ。」』
ナット・ノーフリート、正式にはナサニエル・ノーフリートは、
ブランフリートの共同創業者であり、役職は確か副社長だったと思います。
Duke Kahanamokuと一緒に写真に納まるナット・ノーフリート ↓ です。
https://imagesofoldhawaii.com/branfleet/jackie-eberle-robert-august-dick-metz-nat-norfleet-and-duke-kahanamoku-mccullough-1965/
(Images of Old Hawaiʻi より引用)
もう1人の創業者は、フランス人のジョルジュ・ブランジエで、
こちらが社長だったと思います。
ジョルジュ・ブランジエはこんな人です。
(The Outrigger Canoe ClubのHPより引用)
ブランジエの「ブラン」と、ノーフリートの「フリート」を合わせて
「ブランフリート」という社名にしたようです。
(次回に続く)
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
現在は、『ホノルル・アドヴァタイザー紙』に掲載された、
1939年の記事を翻訳しています。
内容は、ハワイの衣料品産業に関する文章です。
ハワイの衣料品産業(10)
文/ローナ・アーレン
ブランフリートの重役の1人、ナット・ノーフリートによれば、
本土のバイヤーたちは、ハワイからもたらされる服について
全くもって途方もない考えを持っているという。
「最も大きい店舗のバイヤーでさえ、
ハワイのスポーツウェアは、浜辺にある、草でできた粗末な小屋に住む
原住民たちが作っていると考えているのです。
本土の、あるビジネスマンは、
プリントの染色は原住民の女性が足で生地に型押ししていると
思っているとさえ聞きました。」
「彼らは、ハワイの水にはミネラル分が入っていないという、
また別の奇妙な考えも持っていて、
それだからハワイのプリントは鮮やかなんだと言うのです。
ある店は、ワイキキから飛行艇(訳注:水面発着できる機体を持つ飛行機)で
砂を送ってもらうのに30ドルの速達料を払いました。
私たちは、送るのに十分見た目のきれいな砂を手に入れるために、
島の反対側まで行かなくてはなりませんでしたよ。」』
ナット・ノーフリート、正式にはナサニエル・ノーフリートは、
ブランフリートの共同創業者であり、役職は確か副社長だったと思います。
Duke Kahanamokuと一緒に写真に納まるナット・ノーフリート ↓ です。
https://imagesofoldhawaii.com/branfleet/jackie-eberle-robert-august-dick-metz-nat-norfleet-and-duke-kahanamoku-mccullough-1965/
(Images of Old Hawaiʻi より引用)
もう1人の創業者は、フランス人のジョルジュ・ブランジエで、
こちらが社長だったと思います。
ジョルジュ・ブランジエはこんな人です。
(The Outrigger Canoe ClubのHPより引用)
ブランジエの「ブラン」と、ノーフリートの「フリート」を合わせて
「ブランフリート」という社名にしたようです。
(次回に続く)
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