リンダ・アーサー著『20世紀のアロハ服』その28 1930年代~1945年の布地(2) [リンダ・アーサー著『20世紀のアロハ服』]
元ハワイ大学教授のリンダ・アーサー氏が書いた
『20世紀のアロハ服』という本の翻訳をお届けしています。
現在は、「1930年代~1945年の布地」に関する記述です。
『第4章「1930年代~1945年
布地(2)
まずコットン・ブロードクロスは、
ホロク、ムームー、着物からアロハシャツまで
あらゆる衣料品に最もよく使われる布地であった。
中でも最も一般的なのは、青または黒を背景に人物や植物が描かれた、
日本の浴衣地のような、軽いコットン地であった
(著者注:デソト・ブラウンとガンター・ヴォンハムへの1998年秋のインタビュー)。
それに対して、シルクや壁縮緬、
チャリス(訳注:柔らかくて軽い織物)(普通は上質なウール製)などは、
少しドレッシーなシャツや女性の服に使われた。
下着は、上流階級向けには上質なシルクで、
中流・下層階級向けには軽量なレーヨンで作られた。
このレーヨン生地は、しばしば下着で見られる、
現在のナイロン・トリコット(訳注:たて編みの、いわゆるニット地)に
近いものであり、
プリントするには不向きで、
鮮やかな色を保持するだけの強さや質感を備えていなかった
(1940年代になってようやく、より重いレーヨンが開発され、
色を保持できるようになった)。
初期のアロハシャツは、シルクや壁縮緬を使った着物地、
または2色プリントのコットン・ブロードクロスで作られていた。
1930年代前半のアロハシャツのデザイン・モチーフは一様にアジア調であり、
一般的にはローラー・プリントされたのちにハワイに輸入されたものであった。
戦時中は貿易が制限されたため、
ハワイの布地はスクリーン・プリントされることがほとんどだった。』
今回の記述は、筆者の考えと異なる部分がいくつか見られます。
順番に見ていきましょう。
まず、
「最も一般的なのは、青または黒を背景に人物や植物が描かれた、
日本の浴衣地のような、軽いコットン地であった」
という記述です。
この文章には年代が明確に記されていませんが、
文脈から言って、1930年代~1945年のことなのでしょう。
しかし筆者は、このような特徴を持ち、しかも、
1930年代~1945年製の可能性のあるメーカーやショップの織マークの付いた
ヴィンテージ・アロハシャツを、
実物はもちろん、専門書やネットの写真でも、
さらには当時の新聞広告(イラスト又は文字)でも見たことがありません。
もちろん、見たことがないから全く存在しなかったとは言いません。
しかし、「最も一般的」というほどたくさん作られていたのなら、
どうして1枚くらいどこかに残り、筆者の目に触れないのか、
とても不思議なのです。
つまり、「青または黒を背景に人物や植物が描かれた、
日本の浴衣地のような、軽いコットン地」のアロハシャツは、
あったかもしれないが、「最も一般的」というほど多くはなかったのではないか、と
筆者は思うのです。
また、そのあとに、
「初期のアロハシャツは、シルクや壁縮緬を使った着物地、
または2色プリントのコットン・ブロードクロスで作られていた。」
という記述が出てきます。
筆者は、前半部分「シルクや壁縮緬を使った着物地」は
その通りだと思いますが、
後半部分「2色プリントのコットン・ブロードクロス」は
(これも見たことがないため)半信半疑です
(「2色プリント」の2色が、紺と白のような、白=綿の色を含めた2色なのか、
それとも、青と黄色のような、白以外の2色なのかもよくわかりません)。
この話の出典元と思われるデソト・ブラウン氏は、ビショップ博物館の学芸員であり、
当然古い写真などをたくさん見ているでしょうから、
1930年代のアロハシャツを着た人の写真からそのように語ったのかもしれませんが、
筆者もビショップ博物館に行って、
「アロハシャツを着た人の写真」を出してもらいましたが、
決定的な証拠となるような写真を見つけることはできませんでした。
また筆者は、重村猛という日系2世の方に戦前の話を聞いたことがあります。
この方は、ムサシヤ・ショーテンに友禅生地を卸していた
輸入商社・藤井順一商店の営業マンをやっていた方です
(詳しくは『アロハシャツの真実』や拙著『ヴィンテージ・アロハシャツ』を参照)。
この方が、1935~36年の話として、レーヨンの壁縮緬が日本から入っていて、
それでアロハシャツが作られていた、と話してくれました。
こちら ↓ は、1939年の写真です。
壁縮緬と思われる、和柄のアロハシャツを着ています。
(邦字新聞デジタル・コレクションより引用)
以上のことをまとめたうえでの筆者の考えはこうです。
「初期のアロハシャツは、シルクや壁縮緬を使った着物地が最も一般的で、
浴衣地のような軽量コットン地や、コットン・ブロードクロスも
(どのくらい多かったかは不明だが)使われた」
(次回に続く)
『20世紀のアロハ服』という本の翻訳をお届けしています。
現在は、「1930年代~1945年の布地」に関する記述です。
『第4章「1930年代~1945年
布地(2)
まずコットン・ブロードクロスは、
ホロク、ムームー、着物からアロハシャツまで
あらゆる衣料品に最もよく使われる布地であった。
中でも最も一般的なのは、青または黒を背景に人物や植物が描かれた、
日本の浴衣地のような、軽いコットン地であった
(著者注:デソト・ブラウンとガンター・ヴォンハムへの1998年秋のインタビュー)。
それに対して、シルクや壁縮緬、
チャリス(訳注:柔らかくて軽い織物)(普通は上質なウール製)などは、
少しドレッシーなシャツや女性の服に使われた。
下着は、上流階級向けには上質なシルクで、
中流・下層階級向けには軽量なレーヨンで作られた。
このレーヨン生地は、しばしば下着で見られる、
現在のナイロン・トリコット(訳注:たて編みの、いわゆるニット地)に
近いものであり、
プリントするには不向きで、
鮮やかな色を保持するだけの強さや質感を備えていなかった
(1940年代になってようやく、より重いレーヨンが開発され、
色を保持できるようになった)。
初期のアロハシャツは、シルクや壁縮緬を使った着物地、
または2色プリントのコットン・ブロードクロスで作られていた。
1930年代前半のアロハシャツのデザイン・モチーフは一様にアジア調であり、
一般的にはローラー・プリントされたのちにハワイに輸入されたものであった。
戦時中は貿易が制限されたため、
ハワイの布地はスクリーン・プリントされることがほとんどだった。』
今回の記述は、筆者の考えと異なる部分がいくつか見られます。
順番に見ていきましょう。
まず、
「最も一般的なのは、青または黒を背景に人物や植物が描かれた、
日本の浴衣地のような、軽いコットン地であった」
という記述です。
この文章には年代が明確に記されていませんが、
文脈から言って、1930年代~1945年のことなのでしょう。
しかし筆者は、このような特徴を持ち、しかも、
1930年代~1945年製の可能性のあるメーカーやショップの織マークの付いた
ヴィンテージ・アロハシャツを、
実物はもちろん、専門書やネットの写真でも、
さらには当時の新聞広告(イラスト又は文字)でも見たことがありません。
もちろん、見たことがないから全く存在しなかったとは言いません。
しかし、「最も一般的」というほどたくさん作られていたのなら、
どうして1枚くらいどこかに残り、筆者の目に触れないのか、
とても不思議なのです。
つまり、「青または黒を背景に人物や植物が描かれた、
日本の浴衣地のような、軽いコットン地」のアロハシャツは、
あったかもしれないが、「最も一般的」というほど多くはなかったのではないか、と
筆者は思うのです。
また、そのあとに、
「初期のアロハシャツは、シルクや壁縮緬を使った着物地、
または2色プリントのコットン・ブロードクロスで作られていた。」
という記述が出てきます。
筆者は、前半部分「シルクや壁縮緬を使った着物地」は
その通りだと思いますが、
後半部分「2色プリントのコットン・ブロードクロス」は
(これも見たことがないため)半信半疑です
(「2色プリント」の2色が、紺と白のような、白=綿の色を含めた2色なのか、
それとも、青と黄色のような、白以外の2色なのかもよくわかりません)。
この話の出典元と思われるデソト・ブラウン氏は、ビショップ博物館の学芸員であり、
当然古い写真などをたくさん見ているでしょうから、
1930年代のアロハシャツを着た人の写真からそのように語ったのかもしれませんが、
筆者もビショップ博物館に行って、
「アロハシャツを着た人の写真」を出してもらいましたが、
決定的な証拠となるような写真を見つけることはできませんでした。
また筆者は、重村猛という日系2世の方に戦前の話を聞いたことがあります。
この方は、ムサシヤ・ショーテンに友禅生地を卸していた
輸入商社・藤井順一商店の営業マンをやっていた方です
(詳しくは『アロハシャツの真実』や拙著『ヴィンテージ・アロハシャツ』を参照)。
この方が、1935~36年の話として、レーヨンの壁縮緬が日本から入っていて、
それでアロハシャツが作られていた、と話してくれました。
こちら ↓ は、1939年の写真です。
壁縮緬と思われる、和柄のアロハシャツを着ています。
(邦字新聞デジタル・コレクションより引用)
以上のことをまとめたうえでの筆者の考えはこうです。
「初期のアロハシャツは、シルクや壁縮緬を使った着物地が最も一般的で、
浴衣地のような軽量コットン地や、コットン・ブロードクロスも
(どのくらい多かったかは不明だが)使われた」
(次回に続く)
コメント 0