ハワイの衣料品製造業の歴史 その294 「メイド・イン・ハワイ」というレーベルの開発と承認(8) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
この章「ハワイで製造される衣料品の種類」では、衣料品のタイプ別に語られており、
現在は「『メイド・イン・ハワイ』というレーベルの開発と承認」について
まとめた部分をご紹介しています。
この話題はまだもうしばらく続きます。
「メイド・イン・ハワイ」というレーベルの開発と承認(8)
(「1959年に書かれた記事」からの抜粋、の続き)
”「本土の店が、(ハワイの州昇格という)降って湧いたような宣伝効果を利用して、
ハワイの服を強く押し出しているのに合わせて、
ハワイのメーカーも非常に忙しい季節を迎えています。」と
彼(訳注:リバティ・ハウスの副社長兼総支配人、アーサー・E・ジョーンズ)は
言った。”
”若返り。
このようなハワイの服の流行は、
単なる商品計画のサイクルに過ぎないのかもしれないが、
ジョーンズ氏は、この流行はハワイの衣料品産業を決定的に若返らせたと考えており、
衣料品産業がその若返りを維持することを期待している。”
”「春にカリフォルニアのペブル・ビーチで次の会合が開かれるときには、
勢いが増していることでしょう。
商品政策分野のリーダーたちの多くは
ハワイを訪れる計画を立ててもいるでしょうからね。」と彼は言った。”
”ハワイ製のスポーツウェアは本土で非常によく売れており、
水着やショートパンツやペダル・プッシャーやブラウスは
依然として、ムームーよりもずっと人気がある。” 』
上の文章の最後の部分は、筆者の深読みを交えて解釈すると
「ハワイ製のスポーツウェアは本土で非常によく売れており、
(女物では)水着やショートパンツやペダル・プッシャーやブラウスが人気であるが、
それらに比べて、ムームーは(やや古臭く見えるため)あまり人気がない。」
と言っているように聞こえます。
ここでは女物に話を絞っているようなので、
ハワイ製のアロハシャツが本土で人気なのかどうかは実はよくわかりません。
カハラやカメハメハやアルフレッド・シャヒーンなどのハワイ製アロハシャツは
本土でも販売されていたので、そこそこ人気はあったでしょう。
ただ、1959年と言えば、日本製のアロハシャツ
(プリント生地だけではなく、縫製まで日本製)も本土では売られており、
ハワイ製よりも売値は安かったでしょうから、広く売られていたのではないかと
筆者は考えています。
ここで少し話が逸れますが、
1959年当時の日本製アロハシャツの本土での販売状況について考えてみたいと思います。
最もよく知られているものではレーヨン製の「ペニーズ」があります
(古着屋さんあたりでは、ペニーズは1960年代のものと言われていますが、
筆者は1950年代後半からあったと考えています)。
このような ↓ 織ネームですね。
そしてこのような ↓ 柄のものです。
(筆者コレクションより)
シアーズの似たようなアロハシャツも同年代製だったでしょう。
また、後期のパリ・ハワイアン・スタイルにも日本製のものがありました。
こちら ↓ はコットン製ですが、
1950年代末(~60年代初頭)頃のものだと思われます。
(筆者コレクションより)
織ネームに「メイド・イン・ジャパン」↓ と明記されています。
ティキが描かれているあたりからも、
ハワイの伝統文化を前面に出した柄が多い、
州昇格の年(1959年)の製品のように思えます
(正確にはわかりません。筆者の推測です)。
さらに「スポーツウェア」という織ネーム ↓ のアロハシャツも
同時代の、1950年代後半のものだと筆者は考えています。
「ハワイの伝統柄」である「タパ柄」が描かれている ↓ ので、
これも同様に、1959年の製品のように思えてきます。
(筆者コレクションより)
もしも1959年に、全米で「ハワイ・ブーム」のようなものがあったとすれば、
それに乗じて、(ハワイ製よりも安価な)日本製のアロハシャツが出回ったとしても
不思議ではないでしょう。
これはあくまでも筆者の仮説です。
将来的には、本土の新聞広告などを調べて、
1959年に日本製のアロハシャツが本土でも広く売られていたことを
確認していきたいと思います。
ちなみに、上でご紹介した「スポーツウェア」という織ネームは
「T HIRAMINE」という、ニューヨークにあった会社が使っていたことが
わかっています。
そうであるなら、このアロハシャツは米国東部で広く売られていたかもしれませんね。
(次回に続く)
この章「ハワイで製造される衣料品の種類」では、衣料品のタイプ別に語られており、
現在は「『メイド・イン・ハワイ』というレーベルの開発と承認」について
まとめた部分をご紹介しています。
この話題はまだもうしばらく続きます。
「メイド・イン・ハワイ」というレーベルの開発と承認(8)
(「1959年に書かれた記事」からの抜粋、の続き)
”「本土の店が、(ハワイの州昇格という)降って湧いたような宣伝効果を利用して、
ハワイの服を強く押し出しているのに合わせて、
ハワイのメーカーも非常に忙しい季節を迎えています。」と
彼(訳注:リバティ・ハウスの副社長兼総支配人、アーサー・E・ジョーンズ)は
言った。”
”若返り。
このようなハワイの服の流行は、
単なる商品計画のサイクルに過ぎないのかもしれないが、
ジョーンズ氏は、この流行はハワイの衣料品産業を決定的に若返らせたと考えており、
衣料品産業がその若返りを維持することを期待している。”
”「春にカリフォルニアのペブル・ビーチで次の会合が開かれるときには、
勢いが増していることでしょう。
商品政策分野のリーダーたちの多くは
ハワイを訪れる計画を立ててもいるでしょうからね。」と彼は言った。”
”ハワイ製のスポーツウェアは本土で非常によく売れており、
水着やショートパンツやペダル・プッシャーやブラウスは
依然として、ムームーよりもずっと人気がある。” 』
上の文章の最後の部分は、筆者の深読みを交えて解釈すると
「ハワイ製のスポーツウェアは本土で非常によく売れており、
(女物では)水着やショートパンツやペダル・プッシャーやブラウスが人気であるが、
それらに比べて、ムームーは(やや古臭く見えるため)あまり人気がない。」
と言っているように聞こえます。
ここでは女物に話を絞っているようなので、
ハワイ製のアロハシャツが本土で人気なのかどうかは実はよくわかりません。
カハラやカメハメハやアルフレッド・シャヒーンなどのハワイ製アロハシャツは
本土でも販売されていたので、そこそこ人気はあったでしょう。
ただ、1959年と言えば、日本製のアロハシャツ
(プリント生地だけではなく、縫製まで日本製)も本土では売られており、
ハワイ製よりも売値は安かったでしょうから、広く売られていたのではないかと
筆者は考えています。
ここで少し話が逸れますが、
1959年当時の日本製アロハシャツの本土での販売状況について考えてみたいと思います。
最もよく知られているものではレーヨン製の「ペニーズ」があります
(古着屋さんあたりでは、ペニーズは1960年代のものと言われていますが、
筆者は1950年代後半からあったと考えています)。
このような ↓ 織ネームですね。
そしてこのような ↓ 柄のものです。
(筆者コレクションより)
シアーズの似たようなアロハシャツも同年代製だったでしょう。
また、後期のパリ・ハワイアン・スタイルにも日本製のものがありました。
こちら ↓ はコットン製ですが、
1950年代末(~60年代初頭)頃のものだと思われます。
(筆者コレクションより)
織ネームに「メイド・イン・ジャパン」↓ と明記されています。
ティキが描かれているあたりからも、
ハワイの伝統文化を前面に出した柄が多い、
州昇格の年(1959年)の製品のように思えます
(正確にはわかりません。筆者の推測です)。
さらに「スポーツウェア」という織ネーム ↓ のアロハシャツも
同時代の、1950年代後半のものだと筆者は考えています。
「ハワイの伝統柄」である「タパ柄」が描かれている ↓ ので、
これも同様に、1959年の製品のように思えてきます。
(筆者コレクションより)
もしも1959年に、全米で「ハワイ・ブーム」のようなものがあったとすれば、
それに乗じて、(ハワイ製よりも安価な)日本製のアロハシャツが出回ったとしても
不思議ではないでしょう。
これはあくまでも筆者の仮説です。
将来的には、本土の新聞広告などを調べて、
1959年に日本製のアロハシャツが本土でも広く売られていたことを
確認していきたいと思います。
ちなみに、上でご紹介した「スポーツウェア」という織ネームは
「T HIRAMINE」という、ニューヨークにあった会社が使っていたことが
わかっています。
そうであるなら、このアロハシャツは米国東部で広く売られていたかもしれませんね。
(次回に続く)
2021-02-19 22:00
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