ハワイの衣料品製造業の歴史 その135 1946年 ハワイでの、オーダーメードのデザイナーと服のスタイル(8) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、戦中・戦後編の章を、少しずつ翻訳しているところです。
前回はイレギュラーで「ランドオブアロハ研究」をお届けしましたが、
今回は、前々回からの続きで、
「ハワイでの、オーダーメードのデザイナーと服のスタイル」の続きになります。
『1946年 ハワイでの、オーダーメードのデザイナーと服のスタイル(8)
1940年代末から1950年代初頭にかけて
ハワイのオーダーメードのデザイナーが使った布地のデザインは、
ハワイの衣料品メーカーが使った布地のデザインに比べて、
より個性的で、より興味深い傾向がある。
1950年代半ばから後半までには、
本土での販売を始めたい、あるいは増やしたいハワイの衣料品メーカーは、
幅広い経験を持ったデザイナーを雇い、自社のスタイルを改善し、
布地の種類を変え、プリント生地の品質を高め、
幅広いアイデアや人材(その中には東洋のアイデアや人材を含む)に
頼るようになっていた。
このことは、この時期の、本土やハワイの新聞で広告された
ハワイ製衣料品のイラストを見ればわかる。』
前回までのところでは、個々のデザイナーが紹介されていましたが、
今回の部分では、もう少し総論的な、時代分析がなされています。
簡単にまとめると、
1940年代末~50年代初頭・・・工場生産品のデザイン(服の形および使う布地)は、
オーダーメードより劣っていた
1950年代半ば~50年代後半・・・工場生産品のデザイン(形および布地)や品質が上がった
ということのようです。
この点について、
ヴィンテージアロハシャツの歴史を細かく追っている筆者としては、
同意する部分と同意しがたい部分の両方があります。
まず、「大規模メーカーがデザイナーを雇うようになり、
デザイン開発に力を入れるようになった」という部分は、筆者もそうだと思います。
例えばシャヒーンズなどがすぐに思い浮かびます(ボブ・サトウなど)。
一方、カメハメハやカハラは、デザイナーの名前を前面に出していなかったため、
当時の資料を読んでも、どんな人がデザインしていたかよくわかりませんが、
デザイナーを雇っていたのは確かでしょう。
また、「東洋のアイデアを取り入れるようになった」という部分も、
「1950年代後半に、コットンやシルクの和柄が増えた」という事実と合致します。
しかし、「プリント生地の品質を高めた」という部分はにわかには同意できません。
現物を見る限りでは、プリントの品質は、むしろ低下しているからです。
具体的には、レーヨン生地が減ってコットン生地が増えていること、
使う色数が減って鮮やかさが低下していること、などがあげられます。
つまりメーカーとしては、より大量に、より安く作る方向に向かったと思われるのです。
例えば
1950年前後のカメハメハ
(筆者コレクションより)
↓
1950年代後半頃のカメハメハ
(筆者コレクションより)
ただしこれは大手メーカー(カメハメハ、カハラ、シャヒーンズ等)に感じられる傾向で、
ロイヤルハワイアン(これも大手ですが)や、ハレハワイ、イオラニなどは
日本の「壁縮緬」を使うことで、コストは下げつつ鮮やかさを保っており
(むしろ鮮やかさが増しているものもあります)、
その意味では、プリントの品質は確かに向上しているとも言えます。
前回、「ランドオブアロハ」について考察しましたが、
これがまさに今回の話に関係してきます。
つまり、
1949年のレーヨン・抜染のランドオブアロハ
↓
1956年の縮緬・オーバープリントのランドオブアロハ
の転換について、「プリントの品質は向上している」といえるのかもしれません。
最後に、「東洋のアイデアを取り入れるようになった」例として、
こちらをご紹介しておきます。
(1950年代後半のカメハメハ。筆者コレクションより)
(1950年代後半のロイヤルハワイアン。筆者コレクションより)
それではまた。
(次回に続く)
現在は、戦中・戦後編の章を、少しずつ翻訳しているところです。
前回はイレギュラーで「ランドオブアロハ研究」をお届けしましたが、
今回は、前々回からの続きで、
「ハワイでの、オーダーメードのデザイナーと服のスタイル」の続きになります。
『1946年 ハワイでの、オーダーメードのデザイナーと服のスタイル(8)
1940年代末から1950年代初頭にかけて
ハワイのオーダーメードのデザイナーが使った布地のデザインは、
ハワイの衣料品メーカーが使った布地のデザインに比べて、
より個性的で、より興味深い傾向がある。
1950年代半ばから後半までには、
本土での販売を始めたい、あるいは増やしたいハワイの衣料品メーカーは、
幅広い経験を持ったデザイナーを雇い、自社のスタイルを改善し、
布地の種類を変え、プリント生地の品質を高め、
幅広いアイデアや人材(その中には東洋のアイデアや人材を含む)に
頼るようになっていた。
このことは、この時期の、本土やハワイの新聞で広告された
ハワイ製衣料品のイラストを見ればわかる。』
前回までのところでは、個々のデザイナーが紹介されていましたが、
今回の部分では、もう少し総論的な、時代分析がなされています。
簡単にまとめると、
1940年代末~50年代初頭・・・工場生産品のデザイン(服の形および使う布地)は、
オーダーメードより劣っていた
1950年代半ば~50年代後半・・・工場生産品のデザイン(形および布地)や品質が上がった
ということのようです。
この点について、
ヴィンテージアロハシャツの歴史を細かく追っている筆者としては、
同意する部分と同意しがたい部分の両方があります。
まず、「大規模メーカーがデザイナーを雇うようになり、
デザイン開発に力を入れるようになった」という部分は、筆者もそうだと思います。
例えばシャヒーンズなどがすぐに思い浮かびます(ボブ・サトウなど)。
一方、カメハメハやカハラは、デザイナーの名前を前面に出していなかったため、
当時の資料を読んでも、どんな人がデザインしていたかよくわかりませんが、
デザイナーを雇っていたのは確かでしょう。
また、「東洋のアイデアを取り入れるようになった」という部分も、
「1950年代後半に、コットンやシルクの和柄が増えた」という事実と合致します。
しかし、「プリント生地の品質を高めた」という部分はにわかには同意できません。
現物を見る限りでは、プリントの品質は、むしろ低下しているからです。
具体的には、レーヨン生地が減ってコットン生地が増えていること、
使う色数が減って鮮やかさが低下していること、などがあげられます。
つまりメーカーとしては、より大量に、より安く作る方向に向かったと思われるのです。
例えば
1950年前後のカメハメハ
(筆者コレクションより)
↓
1950年代後半頃のカメハメハ
(筆者コレクションより)
ただしこれは大手メーカー(カメハメハ、カハラ、シャヒーンズ等)に感じられる傾向で、
ロイヤルハワイアン(これも大手ですが)や、ハレハワイ、イオラニなどは
日本の「壁縮緬」を使うことで、コストは下げつつ鮮やかさを保っており
(むしろ鮮やかさが増しているものもあります)、
その意味では、プリントの品質は確かに向上しているとも言えます。
前回、「ランドオブアロハ」について考察しましたが、
これがまさに今回の話に関係してきます。
つまり、
1949年のレーヨン・抜染のランドオブアロハ
↓
1956年の縮緬・オーバープリントのランドオブアロハ
の転換について、「プリントの品質は向上している」といえるのかもしれません。
最後に、「東洋のアイデアを取り入れるようになった」例として、
こちらをご紹介しておきます。
(1950年代後半のカメハメハ。筆者コレクションより)
(1950年代後半のロイヤルハワイアン。筆者コレクションより)
それではまた。
(次回に続く)
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