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ハワイの衣料品製造業の歴史 その107 1922~41年 ハワイの衣料品製造業の歴史・戦前編の概要(2) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本の翻訳が続きます。


いよいよ、この章(ハワイの衣料品製造業の歴史・戦前編)全体の概要になります。


1922~41年 ハワイの衣料品製造業の歴史・戦前編の概要(2)

   ハワイ柄のプリント生地が1930年代末に
  ハワイ市場と世界市場に紹介されて以降、
  ハワイの小売店はハワイ製衣料品の広告を出して宣伝した。
  東洋の国々で使われていたブロック・プリントの技術や、
  ジャワ・バティックを生産する際に使われていた絵画手法は、
  1930年代末にハワイ柄生地の元絵を描いていた画家たちに影響を与えた。
  1941年までにこういったハワイの画家たちは、
  ハワイ的なモチーフをハワイ柄のプリント生地に落とし込む際に
  ブロック・プリントを使い始めたのである。
   1941年末までには、観光業が成長するのに合わせて、
  地元民が買うハワイ製衣料品の販売も増加し始めていた。
  それと同時に、本土市場でも、
  ハワイ柄のプリント生地の販売額が伸びるのに合わせて
  ハワイ製衣料品の販売額も伸びるという相関関係には多くの証拠があった。
  ハワイで生産されたアロハシャツやサロン・ドレスやホロクは、
  ハワイで販売されていたのはもちろんだが、
  ハワイの会社によって本土でも販売されていた。
  しかし、1922年から1941年までの間に、
  ハワイ市場向けと本土市場向けにハワイで生産された衣料品の大部分は、
  本土タイプの(訳注:ハワイ的な特徴を持たない、普通の)衣料品であった。
  1930年代末には、アロハシャツやサロン・ドレスやホロクは
  しばしばハワイ柄のプリント生地から作られ、
  ハワイ的なスタイルの雰囲気をまとっていた。
   ハワイの多くの零細企業は、1941年の時点では、
  ノウハウ、経験、経営手腕、デザイン能力をまだ十分持っていなかった。
  しかしながら、1935年からの6年間にハワイの衣料品業界が発展したおかげで、
  ファッション界がハワイに目を向けるようになり、
  ハワイの衣料品製造業は、地元指向の産業から、
  地元と世界の双方を指向する産業へと変貌を遂げたのである。』


 ここまで、戦前期のハワイの衣料品製造業と、アロハシャツを含む
「ハワイアン・スポーツウェア」の歴史を見てきました。
その際、「1930年代末には、アロハシャツやサロン・ドレスやホロクは
しばしばハワイ柄のプリント生地から作られ、
ハワイ的なスタイルの雰囲気をまとっていた。」のは事実ですが、
そのような服の割合は、実はそれほど多くはなかった、ということが、
さりげなく述べられています。
「ほとんどは本土タイプの衣料品」だったというのです。
確かに戦前期のハワイの人の写真を見ても、
みんながみんなアロハシャツを着ているわけではない(実は少ない)のです。
まだまだ一部の人が着る服だったということでしょう。
(本土ではもっと少なく、一部の洒落者だけだったでしょう)
しかし偶然にも、本土のおしゃれな人がハワイの衣料品に注目してくれたおかげで、
ハワイの衣料品製造業は1935年からの6年間に大いに発展し、
それが戦後の大成長(誰もがアロハシャツを着るほどの定着ぶり)に
つながっていくのです。


(この章終わり)

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