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ハワイの衣料品製造業の歴史 その62 1937-38年 ハワイの製品が宣伝された(前編) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本の翻訳が続きます。



 『1937-38年 ハワイの製品が宣伝された(前編)

  1937年、ホノルルの衣料品製造会社、チャンピオン・セールス・ファクターズは、
 1937ハワイアン・プロダクツ・ショーでの展示に協力した39社のうちの1社であった。
  また1938年には、フランク・E・ミッドキフ
 (訳注:カメハメハ・スクールの校長やホノルル商工会議所の会長代理を務めた)が
 青年仏教徒会議で演説した際、次のように発言した。

   ”たとえ小さな産業であっても、輸出のために、
  組み立て製造された革製品、石炭、ラウハラ
  (訳注:ハラの木の葉と、それを使った手工芸品)、繊維、
  ハワイをモチーフにした衣料品などを生産しうるのです。” 』


 フランク・E・ミッドキフ氏の発言は、1938年時点で、
「ハワイをモチーフにした衣料品」(もちろんアロハシャツを含むでしょう)が
かなりの数量作られていて、そのうちの一部が輸出もされており、
しかも輸出数量を増やせる状況にあることを示していると思われます。
1935、36年頃に登場したハワイモチーフの衣料品は、
わずか数年で、ハワイの地元住民に浸透し、
また、本土から来た観光客もハワイに来たのだからと購入するようになったわけです。
(教授の本の以前の部分に出てきたリバティ・ハウスの広告で、観光客に向けて、
 「ハワイに来たら、ハワイの気候にふさわしい服をハワイで買いましょう」
 というような呼びかけをしていました)

 そして、これは以前別のところで読んだことがあるのですが、
シャーリー・テンプル(アメリカの超有名子役)やビング・クロスビーなどが
そのようなハワイ柄衣料品の普及に一役買っているようなのです。

 シャーリー・テンプルは、「1935年12月に家族旅行でハワイを訪れたおりには、
シャーリー・テンプルの姿を一目観ようと行く先々に押し寄せた人々が10万にも達した」
(ウィキペディアの記述)そうで、アロハシャツを来た姿が写真に写され、
新聞やニュース映像で多くの人の目に触れたようです。

シャーリーテンプルのアロハシャツ姿.jpg

 シャーリー・テンプルの場合は、帰郷後もアロハシャツを着ていたとは思えませんが、
ビング・クロスビーは1937年公開の「ワイキキの結婚」の撮影で、
(おそらく1936年頃に)ハワイを訪れ、そのとき買ったと思われるアロハシャツを
ハリウッドに持ち込んで流行させたとも言われています。

ビング・クロスビーのアロハシャツ姿.jpg

↑このアロハシャツの柄はわかりにくいですが、
プルオーバーであることと、大きめのココナッツボタンが付いていることは
よくわかります。それらは初期のアロハシャツの大きな特徴です。



(次回に続く)

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