ハワイの衣料品製造業の歴史 その63 1937-38年 ハワイの製品が宣伝された(後編) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本の翻訳が続きます。
前回の続きになります。
いよいよブランフリート(カハラ)の話が出てきます。
『1937-38年 ハワイの製品が宣伝された(後編)
1938年、ブランフリート(のちのカハラ・スポーツウェア)は
ハワイアン・プロダクツ・ショーに出展した。
1938年9月27日付ホノルル・スターブリトゥン紙掲載の
「ショーの出展者たち」という記事は、このことを次のように報じている。
”服装の流行に敏感な男性や女性にとって、
ハワイアン・プロダクツ・ショーでのブランフリート社の展示は、
ハワイの商業と工業のすべての展示の中で最も興味深いものの1つかもしれない。
ブランフリート社は、ジョージ・ブランジエとナット・ノーフリートが
ハワイでデザインし製造した、
ハワイアン・スポーツウェアとビーチウェアの製造業者であるが、
さまざまなスタイルや素材や色を使った15種類以上の衣料品を展示していた。”
”さらに興味深いのは、かわいい地元の少女の一団が
それらの服を着て見せるという事実であろう。”
”同社は、プロダクツ・ショーで初めてハワイに紹介することになる新素材、
カハラ・クロスで作られたモダンな組み合わせの服装を主役に据えた。
生産量の大部分をハリウッドや、米国のその他の地域に出荷しており、
そこで目立った人気を博してきた。”
”デューク・カハナモクはブランフリートの製品を推奨しており、
有名なデューク・ブランドの商品群のいくつかは同社が製造している。” 』
1936年に創業したブランフリート(カハラ)は、2年後の1938年には
かなり知られた存在になっていることがこの文章からよくわかります。
ハワイアン・プロダクツ・ショーでのブランフリート社の展示は、
かなりおしゃれなものだったのでしょう。
以前紹介した ↓ こちらのプレイスーツも、生地の色や柄などから、
この頃(か、もう少し前あたり)のものだと思われます。
ここで触れられている新素材「カハラ・クロス」がどのようなものかは
残念ながら不明ですが、カハラという名称を1938年にすでに使っていたことは、
非常に重要な点だと思われます。
なぜなら、上の画像のプレイスーツに付けられた織ネームが、
第二次世界大戦後の1940~50年代の織ネームと同じため、
このプレイスーツが戦後のもののように思われていますが、実はそうではなく、
やはり戦前のものであったと推測できる、1つの有力な証拠になりうるからです。
また、前回紹介した小売店の広告で宣伝されている、
デューク・ブランドのシャツやコートは、
ブランフリートが作っていることがここで明かされています
(広告では述べられていません)。
そして、前回、ビング・クロスビーとアロハシャツの話をしましたが、
ここではっきりと「生産量の大部分をハリウッド・・・に出荷しており、
そこで目立った人気を博してきた」と語られています。
ハリウッドで人気なら、当然、ハワイの「服装の流行に敏感な男性や女性」にも
人気があったでしょう。1938年には、アロハシャツ(やハワイ柄の女性服)が
当時の人々の目に輝いて見えるような、憧れの、最先端の流行服であったということを、
ここでしっかりと心にとめておいてください。
(次回に続く)
前回の続きになります。
いよいよブランフリート(カハラ)の話が出てきます。
『1937-38年 ハワイの製品が宣伝された(後編)
1938年、ブランフリート(のちのカハラ・スポーツウェア)は
ハワイアン・プロダクツ・ショーに出展した。
1938年9月27日付ホノルル・スターブリトゥン紙掲載の
「ショーの出展者たち」という記事は、このことを次のように報じている。
”服装の流行に敏感な男性や女性にとって、
ハワイアン・プロダクツ・ショーでのブランフリート社の展示は、
ハワイの商業と工業のすべての展示の中で最も興味深いものの1つかもしれない。
ブランフリート社は、ジョージ・ブランジエとナット・ノーフリートが
ハワイでデザインし製造した、
ハワイアン・スポーツウェアとビーチウェアの製造業者であるが、
さまざまなスタイルや素材や色を使った15種類以上の衣料品を展示していた。”
”さらに興味深いのは、かわいい地元の少女の一団が
それらの服を着て見せるという事実であろう。”
”同社は、プロダクツ・ショーで初めてハワイに紹介することになる新素材、
カハラ・クロスで作られたモダンな組み合わせの服装を主役に据えた。
生産量の大部分をハリウッドや、米国のその他の地域に出荷しており、
そこで目立った人気を博してきた。”
”デューク・カハナモクはブランフリートの製品を推奨しており、
有名なデューク・ブランドの商品群のいくつかは同社が製造している。” 』
1936年に創業したブランフリート(カハラ)は、2年後の1938年には
かなり知られた存在になっていることがこの文章からよくわかります。
ハワイアン・プロダクツ・ショーでのブランフリート社の展示は、
かなりおしゃれなものだったのでしょう。
以前紹介した ↓ こちらのプレイスーツも、生地の色や柄などから、
この頃(か、もう少し前あたり)のものだと思われます。
ここで触れられている新素材「カハラ・クロス」がどのようなものかは
残念ながら不明ですが、カハラという名称を1938年にすでに使っていたことは、
非常に重要な点だと思われます。
なぜなら、上の画像のプレイスーツに付けられた織ネームが、
第二次世界大戦後の1940~50年代の織ネームと同じため、
このプレイスーツが戦後のもののように思われていますが、実はそうではなく、
やはり戦前のものであったと推測できる、1つの有力な証拠になりうるからです。
また、前回紹介した小売店の広告で宣伝されている、
デューク・ブランドのシャツやコートは、
ブランフリートが作っていることがここで明かされています
(広告では述べられていません)。
そして、前回、ビング・クロスビーとアロハシャツの話をしましたが、
ここではっきりと「生産量の大部分をハリウッド・・・に出荷しており、
そこで目立った人気を博してきた」と語られています。
ハリウッドで人気なら、当然、ハワイの「服装の流行に敏感な男性や女性」にも
人気があったでしょう。1938年には、アロハシャツ(やハワイ柄の女性服)が
当時の人々の目に輝いて見えるような、憧れの、最先端の流行服であったということを、
ここでしっかりと心にとめておいてください。
(次回に続く)
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