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ハワイの新聞記事から その169 1968 ムサシヤ・ザ・シャツメーカーが閉店(5) [ハワイの新聞記事から]

筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。

現在は、ムサシヤ・ザ・シャツメーカーについての
1968年の新聞記事をお届けしています。



A68 musashiya.jpg

『「ナンバーワンのシャツメーカー」が華やかなキャリアを終える(5)
文/メアリー・クック(ホノルル・アドヴァタイザー紙スタッフ・ライター)

 実習生として働きに来ていたある人が、1935年には宮本の花嫁になり、
それ以来今日まで店で働いている。

 二人が結婚する1年か2年前に、
ある地元客が新しいアイデアを持って店に入ってきたのだと彼女は言った。

その彼はシャツを何枚か作ってもらいたがっており、
しかも、コットンのプリント柄の浴衣生地を使って欲しいと細かく指定した。

 「とてもいいですね。できますよ。」 経営者は笑顔を浮かべ、
お辞儀をすると、そう言った。

そうして最初のアロハシャツがハワイの風景に出現したのである。

 宮本のキャリアにおける、大昔の、もう1つの「初めて」は、ある失敗であった。

ところがそれは、幸運に転じたのである。

 1920年に宮本は、彼の父親が始めた小さな反物ビジネスを広げようと決意した。

何を買おうかと思案していた時、
テオ・H・デイヴィーズ社のある日系人セールスマンが
英国の、目の詰まったブロードクロスのシャツ生地を見せてくれた。

 「この生地はとてもいいですよ。
ラベンダーとピンクと青と黒の見事なストライプで、
ナンバーワンのとてもいい種類です」とそのセールスマンは言った。

 それは実際、彼がそれまでに見た中でも最上質のシャツ生地で、
宮本は注文した。

荷物が届くと彼は圧倒された。

何反もの英国のシャツ生地、
彼が保管できるよりも多い量の、
しかも彼が販売できるよりもずっと多い量のシャツ生地が、
宮本の前に立ちはだかった。

 アヤー、どうしよう?

 その生地を販売できないのは確実で、彼はお針子を1人雇った。

彼女は裁断し、縫製して、何十ものストライプ・シャツを生産した。
が、1枚も売れなかった。』



宮本孝一郎が結婚したのが1935年で、その1年か2年前に、
「コットンのプリント柄の浴衣生地でシャツを作ってほしい」という注文があったと
上の記事のインタビューで答えています。
そしてそれがハワイで最初のアロハシャツだと述べられています。

筆者はそれが「ハワイで最初のアロハシャツ」だと言っていいのかわかりません。
開襟シャツ(第1ボタンがなくて、裾がスクエア)だったのか、
ドレスシャツ(第1ボタンがあって、裾がラウンド)だったのか、
あるいは(1930年代に多かった)ポロシャツタイプだったのかがわかりませんし、
また、浴衣の生地というのが、どんな柄だったのかもわかりません。
どのようなシャツだったらアロハシャツと呼んでいいのかは
定義があいまいなので何とも言えません。

もう少し突っ込んで聞いておいてくれればよかったのにと恨めしく思ってしまいます。

さらには、それが「ハワイで最初」と言い切れる根拠もありません。

ともかく、「浴衣地のシャツをムサシヤ・ザ・シャツメーカーが早い時期に作った」、
「それがその後のアロハシャツの発展につながった」ということは言えるでしょう。



(次回に続く)

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