ハワイの新聞記事から その143 1984 ジョージ・ブランジエへのインタビュー(10) [ハワイの新聞記事から]
筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
現在は、1984年に行われた、
カハラ共同創業者ジョージ・ブランジエへのインタビューを、
文字に起こしたものを翻訳しています。
『ジョージ・ブランジエへのインタビュー(10)
インタビュー/ケン・プラット
ジョージ・ブランジエ:彼ら
(訳者補足:ウォルター・マクファーレンたち)が店を買いたがっていたので、
私は彼らに売りました。
そして私はスポーツウェアを作る工場を始めました。
最初はそれを「ブランフリート」と呼んでいたのですが、
私の名前の半分とノーフリートの名前の半分から取りました。
そして、ウチの商品が全米で定着した後、
いや、ロンドン、パリのギャラリー・ラファイエット、
オーストラリアのデビッド・ジョーンズといった海外や、
さらにはバロックス・ストア全店で定着した後、
顧客である彼らと話をしました。
というのも、シャツの中に付けたブランド名としては
「カハラ」を使っていたからなのですが、
「社名をカハラ・スポーツウェアに変えた方がいいと思いませんか?」と聞いたのです。
すると彼らは「ええ、変えた方がいいですよ」と言いました。
そのことで混乱はありませんでした。
そうして数年後に変更したわけです。
もちろん成功は一夜にして起こったわけではありません。
しかし私たちには大きな可能性がありました。
ケン・プラット:ええと、お話はまだ30年代のことですか?
それとも40年代について話しているのですか?
ジョージ・ブランジエ:ああ、40年代に入ったところを話しています。
(大きな可能性の)一例を挙げましょう。
B・アルトマン・アンド・カンパニー
(訳注:1865年にニューヨーク市でベンジャミン・アルトマンによって
設立されれた高級百貨店チェーン)は米国東部で4つの大きな店を
ちょうど購入していたところで、
彼らからの開店注文は、私が会社を辞めた年には18万5000ドルありました。
それはともかく、ものごとは私の考えとは正反対でした。
ニーマン・マーカスのバイヤーは(訳者補足:取引関係から)出ていきました。
私は普通、ノーフリートに売らせていました。
というのも彼は私よりもずっと辛抱強いからです。
私は相手があまりに愚かな時にはイライラしがちで、
余計なことを言ってしまうのです。
私は、起こっていることを、そばに座って見ていました。
そもそもウチには、日本でデザインしたプリントがあって、
いや、プリントまで日本でやってもらっていたのですが、
そのほかにも、ハモサビーチですべてスクリーン・プリントされた、
カリフォルニア・ハンドプリントのテキスタイルも使っていました。
このようにして、私たちは自分たちが独占的であることがわかりました。
ケン・プラット:なるほど。』
1984年のインタビューということからすると、
おそらくジョージ・ブランジエはかなりの高齢のはずで、
そのため話がとりとめなく、読んでいてつながりがわかりにくいですよね。
インタビュアーも「今どの年代の話ですか?」と聞いてしまうほどです。
しかも「40年代の話をしている」と言ったすぐあとに
「私が辞めた年には」と、1960年代の話に飛んでいます。
参ってしまいますね。
また、フランス人だからなのか、話している英文も非常にわかりにくく、
翻訳するのもかなり骨が折れ、そのため一度に大量の翻訳ができません。
読者の皆様もイライラされていることと思います。
誠に申し訳ありません。
数回分をまとめて読んでいただいた方がいいかもしれません。
ともかく、今回の部分で押さえておきたいポイントは、
「ブランフリートからカハラに社名を変更したこと」
「それはブランド名がカハラだったから」
「卸先との交渉は辛抱強いノーフリートに任せていたこと」
「日本でデザインとプリントをさせた生地と、
カリフォルニアのハモサビーチでハンド・スクリーン・プリントされた生地との
両方を使っていたこと(ただし年代は不明。1950年代か?)」
などです。
写真はB・アルトマン・アンド・カンパニーの外観
(ウィキペディアから引用)
(次回に続く)
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
現在は、1984年に行われた、
カハラ共同創業者ジョージ・ブランジエへのインタビューを、
文字に起こしたものを翻訳しています。
『ジョージ・ブランジエへのインタビュー(10)
インタビュー/ケン・プラット
ジョージ・ブランジエ:彼ら
(訳者補足:ウォルター・マクファーレンたち)が店を買いたがっていたので、
私は彼らに売りました。
そして私はスポーツウェアを作る工場を始めました。
最初はそれを「ブランフリート」と呼んでいたのですが、
私の名前の半分とノーフリートの名前の半分から取りました。
そして、ウチの商品が全米で定着した後、
いや、ロンドン、パリのギャラリー・ラファイエット、
オーストラリアのデビッド・ジョーンズといった海外や、
さらにはバロックス・ストア全店で定着した後、
顧客である彼らと話をしました。
というのも、シャツの中に付けたブランド名としては
「カハラ」を使っていたからなのですが、
「社名をカハラ・スポーツウェアに変えた方がいいと思いませんか?」と聞いたのです。
すると彼らは「ええ、変えた方がいいですよ」と言いました。
そのことで混乱はありませんでした。
そうして数年後に変更したわけです。
もちろん成功は一夜にして起こったわけではありません。
しかし私たちには大きな可能性がありました。
ケン・プラット:ええと、お話はまだ30年代のことですか?
それとも40年代について話しているのですか?
ジョージ・ブランジエ:ああ、40年代に入ったところを話しています。
(大きな可能性の)一例を挙げましょう。
B・アルトマン・アンド・カンパニー
(訳注:1865年にニューヨーク市でベンジャミン・アルトマンによって
設立されれた高級百貨店チェーン)は米国東部で4つの大きな店を
ちょうど購入していたところで、
彼らからの開店注文は、私が会社を辞めた年には18万5000ドルありました。
それはともかく、ものごとは私の考えとは正反対でした。
ニーマン・マーカスのバイヤーは(訳者補足:取引関係から)出ていきました。
私は普通、ノーフリートに売らせていました。
というのも彼は私よりもずっと辛抱強いからです。
私は相手があまりに愚かな時にはイライラしがちで、
余計なことを言ってしまうのです。
私は、起こっていることを、そばに座って見ていました。
そもそもウチには、日本でデザインしたプリントがあって、
いや、プリントまで日本でやってもらっていたのですが、
そのほかにも、ハモサビーチですべてスクリーン・プリントされた、
カリフォルニア・ハンドプリントのテキスタイルも使っていました。
このようにして、私たちは自分たちが独占的であることがわかりました。
ケン・プラット:なるほど。』
1984年のインタビューということからすると、
おそらくジョージ・ブランジエはかなりの高齢のはずで、
そのため話がとりとめなく、読んでいてつながりがわかりにくいですよね。
インタビュアーも「今どの年代の話ですか?」と聞いてしまうほどです。
しかも「40年代の話をしている」と言ったすぐあとに
「私が辞めた年には」と、1960年代の話に飛んでいます。
参ってしまいますね。
また、フランス人だからなのか、話している英文も非常にわかりにくく、
翻訳するのもかなり骨が折れ、そのため一度に大量の翻訳ができません。
読者の皆様もイライラされていることと思います。
誠に申し訳ありません。
数回分をまとめて読んでいただいた方がいいかもしれません。
ともかく、今回の部分で押さえておきたいポイントは、
「ブランフリートからカハラに社名を変更したこと」
「それはブランド名がカハラだったから」
「卸先との交渉は辛抱強いノーフリートに任せていたこと」
「日本でデザインとプリントをさせた生地と、
カリフォルニアのハモサビーチでハンド・スクリーン・プリントされた生地との
両方を使っていたこと(ただし年代は不明。1950年代か?)」
などです。
写真はB・アルトマン・アンド・カンパニーの外観
(ウィキペディアから引用)
(次回に続く)
コメント 0