ハワイの新聞記事から その142 1984 ジョージ・ブランジエへのインタビュー(9) [ハワイの新聞記事から]
筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
現在は、1984年に行われた、
カハラ共同創業者ジョージ・ブランジエへのインタビューを、
文字に起こしたものを翻訳しています。
『ジョージ・ブランジエへのインタビュー(9)
インタビュー/ケン・プラット
ジョージ・ブランジエ:それで、私たちは1935年にその店を始めました。
開いたのは、クリスマスの2週間前でした、2カ月前ではなく。
私はハワイの人たちがそれまで見たことのないラインを持ってきました。
カスタム・テーラーがあったのです。
私はすべての服をカスタムメイドしてもらっていたので、
採寸の仕方を知っていました。
また生地も厳選しました。
そうして4週間後には自分だけのスーツを手に入れられるようにしました。
私は採寸後の修正についてすべて知っていました。
少し後ろを短くするとか。
そして、自慢げに聞こえるのは本意ではありませんが、
クリスマスの3日後には、
より多くの商品を送ってもらうよう本土に電話をしていました。
ケン・プラット:すぐに成功したわけですね。
ジョージ・ブランジエ:そうです。
その後、2倍の商品を注文したのですが、
6か月のストライキがあった年だったので、商品を受け取ったのは翌年の3月でした。
ケン・プラット:なるほど。
ジョージ・ブランジエ:そんなわけで、
何もすることがありませんでしたが、
店に何か商品を入れなければなりませんでした。
そこで私は、ワットムルス・イーストインディア・ストアでバティックを買い、
日系人のお店で日本のプリント生地を買って、
(訳者補足:それを縫ってくれる)小さなドレスメーカーを見つけたのです。
その間に、ナット・ノーフリート・シニアがやって来て、店を手伝ってくれました。
というのも、ミラーが本土に戻ってしまっていたので。
ノーフリートは、販売や、店のショーウィンドウの飾りつけを手伝ってくれました。
私たちはよそで、ひっきりなしにシャツを作ってもらい、
ひっきりなしにスイムトランクスを作ってもらって、店に置いたのですが、
結局すべてを売り切りました。
ウォルター・マック(マクファーレン)が私の店を買いたがったのは
ちょうどその頃です。
私はニール・ミラーを店のオーナーから外していたので、
その時点では私が唯一のオーナーでした。
私はミラーを一艘のボートに乗せていたわけです。
ケン・プラット: (笑い)』
「6か月のストライキがあって、本土に注文していた商品が入ってこなくなり、
売るものを調達するために、アロハシャツを作り始めた」
ということのようです。
逆に言えばストライキがなければ、
ミラー・ブランジエはアロハシャツを作り始めることなく、
スーツなどの紳士服を売る店として営業し続けたでしょうから、
その後、スポーツウェアメーカーのブランフリート(カハラ)を始めることも
なかったということです。
偶然というのは面白いものですね。
そして、ミラー・ブランジエのアロハシャツは
「ワットムルス・イーストインディア・ストアでバティックを買い、
日系人のお店(ムサシヤあたりでしょうか?)で日本のプリント生地
(キモノ柄の生地でしょう)を買って、
小さなドレスメーカーを見つけてきて、そこで縫ってもらった」
ようです。
この情報も貴重ですね。
この話はまだ続きます。
(次回に続く)
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
現在は、1984年に行われた、
カハラ共同創業者ジョージ・ブランジエへのインタビューを、
文字に起こしたものを翻訳しています。
『ジョージ・ブランジエへのインタビュー(9)
インタビュー/ケン・プラット
ジョージ・ブランジエ:それで、私たちは1935年にその店を始めました。
開いたのは、クリスマスの2週間前でした、2カ月前ではなく。
私はハワイの人たちがそれまで見たことのないラインを持ってきました。
カスタム・テーラーがあったのです。
私はすべての服をカスタムメイドしてもらっていたので、
採寸の仕方を知っていました。
また生地も厳選しました。
そうして4週間後には自分だけのスーツを手に入れられるようにしました。
私は採寸後の修正についてすべて知っていました。
少し後ろを短くするとか。
そして、自慢げに聞こえるのは本意ではありませんが、
クリスマスの3日後には、
より多くの商品を送ってもらうよう本土に電話をしていました。
ケン・プラット:すぐに成功したわけですね。
ジョージ・ブランジエ:そうです。
その後、2倍の商品を注文したのですが、
6か月のストライキがあった年だったので、商品を受け取ったのは翌年の3月でした。
ケン・プラット:なるほど。
ジョージ・ブランジエ:そんなわけで、
何もすることがありませんでしたが、
店に何か商品を入れなければなりませんでした。
そこで私は、ワットムルス・イーストインディア・ストアでバティックを買い、
日系人のお店で日本のプリント生地を買って、
(訳者補足:それを縫ってくれる)小さなドレスメーカーを見つけたのです。
その間に、ナット・ノーフリート・シニアがやって来て、店を手伝ってくれました。
というのも、ミラーが本土に戻ってしまっていたので。
ノーフリートは、販売や、店のショーウィンドウの飾りつけを手伝ってくれました。
私たちはよそで、ひっきりなしにシャツを作ってもらい、
ひっきりなしにスイムトランクスを作ってもらって、店に置いたのですが、
結局すべてを売り切りました。
ウォルター・マック(マクファーレン)が私の店を買いたがったのは
ちょうどその頃です。
私はニール・ミラーを店のオーナーから外していたので、
その時点では私が唯一のオーナーでした。
私はミラーを一艘のボートに乗せていたわけです。
ケン・プラット: (笑い)』
「6か月のストライキがあって、本土に注文していた商品が入ってこなくなり、
売るものを調達するために、アロハシャツを作り始めた」
ということのようです。
逆に言えばストライキがなければ、
ミラー・ブランジエはアロハシャツを作り始めることなく、
スーツなどの紳士服を売る店として営業し続けたでしょうから、
その後、スポーツウェアメーカーのブランフリート(カハラ)を始めることも
なかったということです。
偶然というのは面白いものですね。
そして、ミラー・ブランジエのアロハシャツは
「ワットムルス・イーストインディア・ストアでバティックを買い、
日系人のお店(ムサシヤあたりでしょうか?)で日本のプリント生地
(キモノ柄の生地でしょう)を買って、
小さなドレスメーカーを見つけてきて、そこで縫ってもらった」
ようです。
この情報も貴重ですね。
この話はまだ続きます。
(次回に続く)
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