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ハワイの新聞記事から その134 1984 ジョージ・ブランジエへのインタビュー(1) [ハワイの新聞記事から]

筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。

今回もカハラに関する記事を翻訳します。
と言っても、正確には新聞の記事ではなく、
カハラの共同創業者、ジョージ・ブランジエへのインタビューを
文字に起こしたものの翻訳になります。




George-Brangier (2).jpg

『ジョージ・ブランジエへのインタビュー(1)
インタビュー/ケン・プラット

*注) これは、1935年からアウトリガー・カヌー・クラブのメンバーである
    ジョージ・ブランジエへのインタビューである。

    このインタビューは、1984年8月8日にケン・プラットの家で行われている。

    インタビューアーは、アウトリガー・カヌー・クラブの
    オーラル・ヒストリー委員会を代表するケン・プラットである。


ケン・プラット:ジョージ、アウトリガー・カヌー・クラブでの
初期の日々(の話)に入る前に、あなた自身について少し教えていただけますか?

ジョージ・ブランジエ:えーと、私はフランスで生まれ、
カリフォルニアの、サンノゼの近くに来ました。

そこで父は、このグループのためにサンフランシスコでアルコール蒸留所を
経営していました。

ちなみに彼は共同所有者だったのですが。

そして糖蜜(訳者補足:ラム酒などの原料)を仕入れるために
A&B、つまりアレクサンダー&ボールドウィン(訳注:ハワイ最大の食料品店)と
取引をしました。

以前はヒロにその会社の貯蔵タンクがありました。

糖蜜はクロケットに入り、糖蜜の一部と乾燥アルファルファは牛の飼料になりました。

残りはサンノゼ近くの蒸留所に行き、190プルーフのアルコールに蒸留されました。

その後、2ビットショット用に
アンカット(訳注:水で希釈していない)・ウイスキーを作りました。

ケン・プラット: なるほど。

ジョージ・ブランジエ:そこには30人の樽製造人がいて、
1日中、つまり1日8時間、50ガロン用の焦がした樽を作っていました。

その後ウイスキーは焦がした樽に入れられ、
最終的には販売業者に送られました。

彼らがそれで何をしたのか、私たちは知りませんでしたし、特に気にもしませんでした。

ケン・プラット: そうですか。』



ジョージ・ブランジエが、カハラのビジネスを始める前の話は
これまでほとんど知られていないので、
なかなか興味深い話が聞けそうです。

少々長い話ですがお付き合いください。



(次回に続く)


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