ハワイの新聞記事から その126 1956 品質はカハラ社の要石である(1) [ハワイの新聞記事から]
筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
今回から新しい新聞記事となりますが、
引き続きカハラ・スポーツウェア社についてです。
1956年の『ホノルル・アドヴァタイザー紙』に掲載されたものになります。
『ハワイの衣料品産業 第9回カハラ
品質はカハラ社の要石である(1)
文/ナンシー・ハーロッカー
(編集部注:これは、ハワイ製造業者組合のメンバーに関するシリーズ記事の
第9回である。
今回の話はカハラ・スポーツウェア社に関わるものである。)
品質とシンプルさが、カハラ・スポーツウェア社によって作られる
カハラ・ファッションの要石である。
ナット・ノーフリートとジョージ・ブランジエは、
彼らが1935年に創業し、最初はブランフリートと呼ばれた会社の共同オーナーである。
この2人の男性は、ロサンゼルスですでに知り合いであったが、
その後観光客としてホノルルで出会ったのである。
彼らは、カジュアル・ファッションの市場が
島の生活の足りないものを補って完全なものにすると見て、
ハワイ最古のファッション衣料品会社であるものをスタートさせ、
まずアロハシャツから始めた。
ホノルルの衣料品産業が労働着を作ることに留まっていたのに
先んじたのである。
その当時、ニットのスーツが流行していたため、
水着の市場は存在しなかった。
今日(訳注:1956年)、カハラ社は
女性のアクティブ・スポーツウェアのラインに特化している。』
この記事では、創業年が「1935年」ということになっているところが
やや気になりますが、
ハワイに来る前に、2人ともロサンゼルスにいて、
すでに知り合い(面識があったという程度でしょうが)だったという話は
初めて知りました。
確かにハワイには、パラカなどの労働着(ワークウェア)のメーカーと
市場はありましたが、
ハワイ製の「ファッション衣料品」はなく、
あったのは米国本土から輸入されたものだけでした
(1930年代の若者が、ハワイ製のパラカやセイラーモクを、ワークウェアではなく、
お洒落着=ファッション衣料品と見なしていた、という事情はありましたが・・・)。
ですから2人には先見の明があったと言ってもよいでしょうね。
(次回に続く)
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。
今回から新しい新聞記事となりますが、
引き続きカハラ・スポーツウェア社についてです。
1956年の『ホノルル・アドヴァタイザー紙』に掲載されたものになります。
『ハワイの衣料品産業 第9回カハラ
品質はカハラ社の要石である(1)
文/ナンシー・ハーロッカー
(編集部注:これは、ハワイ製造業者組合のメンバーに関するシリーズ記事の
第9回である。
今回の話はカハラ・スポーツウェア社に関わるものである。)
品質とシンプルさが、カハラ・スポーツウェア社によって作られる
カハラ・ファッションの要石である。
ナット・ノーフリートとジョージ・ブランジエは、
彼らが1935年に創業し、最初はブランフリートと呼ばれた会社の共同オーナーである。
この2人の男性は、ロサンゼルスですでに知り合いであったが、
その後観光客としてホノルルで出会ったのである。
彼らは、カジュアル・ファッションの市場が
島の生活の足りないものを補って完全なものにすると見て、
ハワイ最古のファッション衣料品会社であるものをスタートさせ、
まずアロハシャツから始めた。
ホノルルの衣料品産業が労働着を作ることに留まっていたのに
先んじたのである。
その当時、ニットのスーツが流行していたため、
水着の市場は存在しなかった。
今日(訳注:1956年)、カハラ社は
女性のアクティブ・スポーツウェアのラインに特化している。』
この記事では、創業年が「1935年」ということになっているところが
やや気になりますが、
ハワイに来る前に、2人ともロサンゼルスにいて、
すでに知り合い(面識があったという程度でしょうが)だったという話は
初めて知りました。
確かにハワイには、パラカなどの労働着(ワークウェア)のメーカーと
市場はありましたが、
ハワイ製の「ファッション衣料品」はなく、
あったのは米国本土から輸入されたものだけでした
(1930年代の若者が、ハワイ製のパラカやセイラーモクを、ワークウェアではなく、
お洒落着=ファッション衣料品と見なしていた、という事情はありましたが・・・)。
ですから2人には先見の明があったと言ってもよいでしょうね。
(次回に続く)
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