ハワイの衣料品製造業の歴史 その233 1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(9) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き、同じ新聞記事の引用部分が続きます。
『1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(9)
”アルフレッド・シャヒーン社の1957年の売上高は260万8000ドルに達したが、
経費を移し替えたため3000ドルの損失となった。
1958年には227万ドルの売り上げに対して2万9000ドルの利益があった。”
”今年(訳注:1959年)の売上高は410万ドルに達する見込みである。
その内訳は、衣料品製造部門から360万ドル、
プリント生地販売部門から50万ドルとなっている。”
”シャヒーンは1947年に、もともとあった衣料品製造工場で働き始め、
1948年11月に生地プリントの分野に参入した。”
”昔は「起きている時間はずっと」働いたが、
今は1日10時間か11時間、週に6日働いている。”
”「新しいスケジュール」になってから、
妻アメリアや5歳から11歳までの5人の娘と
以前よりも多くの時間を過ごせるようになった。”
”シャヒーンは会社から年2万5000ドルの報酬を受け取り、
マノア・ヴァレーにある3万ドルの自宅に住んでいる。
彼は自分の純資産額を明かすことは拒んでいるが、
億万長者からはほど遠いと言っている。”
”お金をたくさん稼ぎたいという強い欲求は持っていないと言うが、
ファッションの世界で超大物の1人になりたいという漠然とした気持ちはあると
語っている。” 』
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き、同じ新聞記事の引用部分が続きます。
『1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(9)
”アルフレッド・シャヒーン社の1957年の売上高は260万8000ドルに達したが、
経費を移し替えたため3000ドルの損失となった。
1958年には227万ドルの売り上げに対して2万9000ドルの利益があった。”
”今年(訳注:1959年)の売上高は410万ドルに達する見込みである。
その内訳は、衣料品製造部門から360万ドル、
プリント生地販売部門から50万ドルとなっている。”
”シャヒーンは1947年に、もともとあった衣料品製造工場で働き始め、
1948年11月に生地プリントの分野に参入した。”
”昔は「起きている時間はずっと」働いたが、
今は1日10時間か11時間、週に6日働いている。”
”「新しいスケジュール」になってから、
妻アメリアや5歳から11歳までの5人の娘と
以前よりも多くの時間を過ごせるようになった。”
”シャヒーンは会社から年2万5000ドルの報酬を受け取り、
マノア・ヴァレーにある3万ドルの自宅に住んでいる。
彼は自分の純資産額を明かすことは拒んでいるが、
億万長者からはほど遠いと言っている。”
”お金をたくさん稼ぎたいという強い欲求は持っていないと言うが、
ファッションの世界で超大物の1人になりたいという漠然とした気持ちはあると
語っている。” 』
(次回に続く)
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