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ハワイの衣料品製造業の歴史 その232 1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(8) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。

現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き、同じ新聞記事の引用部分が続きます。



『1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(8)

  ”アルフレッド・シャヒーン社は、
  売上高92万2000ドル、純利益6万5000ドルという素晴らしい第1四半期を終えた後、
  1956年に改組された。

  同年、カラカウア通りの工場が建てられ、
  プリントを行う工程は
  空港近くのプレハブの簡素な小屋からこの新しいビルに移された。”

  ”アルフレッド・シャヒーンと彼の母親は、銀行ローンで55万ドルを調達し、
  100万ドルで同社を株式会社化して、株式の90%を所有することとなり、
  100名強の従業員が残りの10%を買った。

  そしてこの時、古い機械は全て新しいものと交換された。”

  ”この時からずっと視界良好な経営であったわけでは決してなかった。

  シャヒーンの言葉を借りれば、
  「この種のプリント工程としては自分たちが知る限り世界最大のものが、
  いまや1つ屋根の下にある」とはいえ、そうなのである。”

  ”「それは垂直的な経営なのです。

  すなわち、自社のアート・スタジオでプリントの柄をデザインすることから始まり、
  出来上がった衣料品を、自社の販売組織を使って
  世界のさまざまな地域の5000の店舗に配送することで終えるまで垂直的なのです」と
  シャヒーンは言う。” 』



少し補足しながら、この文章の多少不正確な部分を修正しておきます。

まず、アルフレッド・シャヒーンが1948年に入ったのは、
両親が経営していた「ジョージ・A・シャヒーン」(父親の名前)という会社
(実際は株式会社ではなかったことが、上の文章で分かります)で、
その下に、ハンド・スクリーン・プリントをする
子会社「サーフン・サンド・ハンド・プリンツ」を設立しました。

そして上の文章には書かれていませんが、1955年12月に父が死去したのをきっかけに
翌1956年に同社を株式会社化し彼と母親とで90%の株式を握り、
名前を「アルフレッド・シャヒーン株式会社」とし、
カラカウア通りに新しい工場兼本社ビルを建てたわけです。

さらには、子会社「サーフン・サンド・ハンド・プリンツ」を吸収合併し、
プリント工場も、新本社ビルに移転しました。

数字的なものも控えておくなら、
「1956年時点で、従業員は100人強いた」こと、
「(おそらく1956年時点で)世界5000店舗に卸していた」こと
にも注目しておきましょう。
ハワイのアパレルメーカーとしては、かなり成功した部類と言えるでしょう。
まさに「垂直的経営」のおかげです。



ちなみに、「カラカウア通りに建てた新しい工場兼本社ビル」はこちら ↓ です。

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なかなかモダンな建物ですね。

そして驚くべきことに、同じ建物が現在もまだ残っています。それがこちら ↓ です。

1673 kalakaua ave.jpg

(グーグル ストリートビューより引用)

比較すると全く同じ建物であることがわかりますね。
ハワイでは時々あることとはいえ、それでも奇跡的なことと言ってもいいでしょう。



(次回に続く)

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