ハワイの衣料品製造業の歴史 その228 1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(4) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も前回と同じ新聞記事の引用部分です。
『1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(4)
”わずか2、3年前に、そのようなバラ色の未来を予言する人は、
ガフニーはもちろん、業界の他の重鎮にもいなかっただろう。
ハワイアン・ファッションはハワイで大々的に、
つまり地元住民にも観光客にも売られたのである。”
”たまたま何が起こって物事が進展したのだろうか?”
”この成功物語の大部分はおそらく、シャヒーンや、
彼のような多くの若い男女の周りを巡っているのであろう。”
”ニュージャーシー生まれのシャヒーンにとって未来は常に明るかったわけではない。
例えば1951年という年を取り上げてみよう。”
”シャヒーンは1948年にここハワイで、
男性、女性、子供用のスポーツウェアの卸専門のメーカーとして操業を開始した。”
”彼は、4台の機械と4人の従業員とを使って、
カラカウア通りにある現在のシャヒーンの工場に隣接した建物に店舗を立ち上げた。”
”彼は米国本土からプリント生地を輸入し、
それを裁断し縫製して服を作り、市場に出した。”
”彼は最初の年に16万5000ドルの売上総利益を上げ、
(訳注:そこから経費などを差し引いた結果)ささやかな純利益を手にした。
翌年、生産額は39万5000ドルに跳ね上がり、
税引き前利益は生産額の7%に達した。” 』
シャヒーンは1948年に、男性、女性、子供用のスポーツウェアの
卸専門のメーカーとして操業を開始したこと、
4台の機械と4人の従業員とを使って、
カラカウア通りのシャヒーンの工場に隣接した建物に店舗を立ち上げたこと、
最初は米国本土からプリント生地を輸入していたこと、
翌年の1949年には創業年の倍以上も売り上げていたこと、
などが、この文章から明らかになりました。
筆者がこれまでに見てきたシャヒーンのヴィンテージアロハシャツから、
この時期(米国本土からプリント生地を調達していた時期)の製品は、
おそらくほとんどが「レーヨンの抜染」のものだろうと筆者は考えています。
この時期のコットン製アロハシャツは見たことがないからそう思うのですが、
もしかしたら少しはあったかもしれません。
もう少し判断を保留しておきます。
最初は4台の機械と4人の従業員で作っていたというのですから、
(その後は多少増えたでしょうが)生産量はわずかだったことでしょう。
シャヒーンのレーヨン抜染のアロハシャツは現存数が非常に少ないのですが、
それは生産量自体が少なかったからかもしれません。
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も前回と同じ新聞記事の引用部分です。
『1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(4)
”わずか2、3年前に、そのようなバラ色の未来を予言する人は、
ガフニーはもちろん、業界の他の重鎮にもいなかっただろう。
ハワイアン・ファッションはハワイで大々的に、
つまり地元住民にも観光客にも売られたのである。”
”たまたま何が起こって物事が進展したのだろうか?”
”この成功物語の大部分はおそらく、シャヒーンや、
彼のような多くの若い男女の周りを巡っているのであろう。”
”ニュージャーシー生まれのシャヒーンにとって未来は常に明るかったわけではない。
例えば1951年という年を取り上げてみよう。”
”シャヒーンは1948年にここハワイで、
男性、女性、子供用のスポーツウェアの卸専門のメーカーとして操業を開始した。”
”彼は、4台の機械と4人の従業員とを使って、
カラカウア通りにある現在のシャヒーンの工場に隣接した建物に店舗を立ち上げた。”
”彼は米国本土からプリント生地を輸入し、
それを裁断し縫製して服を作り、市場に出した。”
”彼は最初の年に16万5000ドルの売上総利益を上げ、
(訳注:そこから経費などを差し引いた結果)ささやかな純利益を手にした。
翌年、生産額は39万5000ドルに跳ね上がり、
税引き前利益は生産額の7%に達した。” 』
シャヒーンは1948年に、男性、女性、子供用のスポーツウェアの
卸専門のメーカーとして操業を開始したこと、
4台の機械と4人の従業員とを使って、
カラカウア通りのシャヒーンの工場に隣接した建物に店舗を立ち上げたこと、
最初は米国本土からプリント生地を輸入していたこと、
翌年の1949年には創業年の倍以上も売り上げていたこと、
などが、この文章から明らかになりました。
筆者がこれまでに見てきたシャヒーンのヴィンテージアロハシャツから、
この時期(米国本土からプリント生地を調達していた時期)の製品は、
おそらくほとんどが「レーヨンの抜染」のものだろうと筆者は考えています。
この時期のコットン製アロハシャツは見たことがないからそう思うのですが、
もしかしたら少しはあったかもしれません。
もう少し判断を保留しておきます。
最初は4台の機械と4人の従業員で作っていたというのですから、
(その後は多少増えたでしょうが)生産量はわずかだったことでしょう。
シャヒーンのレーヨン抜染のアロハシャツは現存数が非常に少ないのですが、
それは生産量自体が少なかったからかもしれません。
(次回に続く)
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