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ハワイの衣料品製造業の歴史 その226 1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(2) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。

現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も前回に引き続きアルフレッド・シャヒーンに関する新聞記事の引用部分で、
この話題はしばらく続きます。



『1959年 衣料品メーカーは100万ドルのプリント生地を縫う(2)

  ”人物写真はあてにならない。

  屈強な体格に騙されて、
  その陰に隠れた優れた知性と不屈の精神が見えにくくなるからである。

  その優れた知性と不屈の精神があればこそ、
  シャヒーンは、100万ドルのビジネスをハワイで築けたのであり、
  それほど大きなビジネスは、第二次世界大戦以前のハワイにはなかったのである。”

  ”衣料品産業は今日、砂糖、パイナップル、観光を押しのけて、
  ハワイ経済上、最重要産業になろうとしている。

  シャヒーンは、「アロハシャツの壁」を克服し、
  作られる服の概念を広げるだけでなく、
  その服が売られる場所も広げることで、
  衣料品産業全体を上向かせてくれると信じられてきた。” 』



前回の部分で、シャヒーンのことをかなりひどく言っていましたが、
今回の部分で一転して持ち上げています。
彼には知性と不屈の精神があり、
それゆえ100万ドルのビジネスを築けたというのです。

しかも業界の固定概念を打破して新しい風を吹き込んだ、と言っています。

ここで、あまりよくない意味で「アロハシャツの壁」という言葉が使われています。
説明がないため正確なところはわかりませんが、
「ハワイなのだから伝統的なアロハシャツを作らなければ服が売れない」という
衣料品業界の先入観のことを指しているようです。

シャヒーンは、そのような先入観を捨てて、
アロハシャツではないものをもっと自由に作るべきだし、
売る場所もハワイ以外でももっと売ればいいではないか、
というような考えを持っていたと言っているように聞こえます。

筆者は、この文章を読んでわが意を得たりと思いました。

シャヒーンは「アロハシャツっぽくない、ヘンなアロハシャツ」を
たくさん作っていたと筆者は以前から感じており、
そのヘンさが、意外にクセになると思っていたからです。

例えば、以前にもご紹介した、こちら ↓ のシャツもかなりヘンです。

058-b.jpg

(筆者コレクションより)

なんでハワイで、ご飯茶碗と箸なんだろうと、以前から不思議に思っていましたが、
実はこれは「アロハシャツ」つまりハワイらしさを持つシャツではなく、
「東洋的なモチーフのプリントシャツ」なんだと考えればいいのだと
筆者は最近気づきました。

つまり、ハワイだけで売られていたというよりは、
米国本土(特にカリフォルニアやシアトルなどの、東洋人の多い西海岸)で
売られていたのではないかと思うのです。

そう考えれば、上の記事の文章にある、
「作られる服の概念を広げ」、「その服が売られる場所も広げ」の意味を
理解できるのではないでしょうか?

そうやって、シャヒーンは1950年代末頃に大成功を収めたのです。


(次回に続く)



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