ハワイの衣料品製造業の歴史 その216 1950年 ハワイの1産業、生地プリント(19) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(19)
その記事はさらに述べている。
”誰もが認めるプリント業界のリーダーは、
サーフン・サンド・ハンド・プリンツである。
同社は、昨年150万ヤード(訳注:約137万m)のプリント生地を生産した。”
”もう1社別の主要な生産者はノエル・オブ・ハワイである。”
”両社は衣料品製造ビジネスと連動して稼働している。”
”パーク・フォレスト株式会社は、プリントした生地を、生地小売店か、
あるいはプリント会社にコネを持たない衣料品メーカーにだけ卸している
唯一のプリント会社である。”
その記事は、パーク・フォレスト株式会社が、
1955年には25柄を、1956年には60柄を提供したこと、
2人のオーナーとルース・アベ女史が同社の柄を描いていること、
オーナーたちがスクリーン・プリントに参入することを考え始めたのは
1947年であることも書いている。
オーナーたちと4人の従業員は機械の大半を1万5000ドルで組み立てたのだが、
それを新品で買ったとしたらその額の10数倍は掛ったことだろう。
また衣料品メーカーの中で彼らの最初の顧客になったのは
ナニ・スポーツウェア株式会社のベティ・ロバートソン女史であった。
記事が書かれた1956年には、パーク・フォレストは、
ワイアラエにある10エーカーの小区画に新工場を建てる手続き中であったのだが、
その工場は彼らのキャパシティの3倍であった。』
サーフン・サンドはハワイのプリント生産量の4分の3を生産している大手であり、
サーフン・サンドとノエル・オブ・ハワイが衣料品メーカーと連携していること、
それに対して、パーク・フォレストは、生地小売店向けや、
小規模メーカーに卸しており、
その中にはナニ・スポーツウェアが含まれること、などが書かれています。
ベティ・ロバートソンは、この人 ↓ です。
テキスタイル・デザイナーでもあります。
(筆者コレクションより)
彼女が着ている「パイナップル・タパ」という柄が代表作だそうです。
こんな柄、見たことがあるんですけどね。
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(19)
その記事はさらに述べている。
”誰もが認めるプリント業界のリーダーは、
サーフン・サンド・ハンド・プリンツである。
同社は、昨年150万ヤード(訳注:約137万m)のプリント生地を生産した。”
”もう1社別の主要な生産者はノエル・オブ・ハワイである。”
”両社は衣料品製造ビジネスと連動して稼働している。”
”パーク・フォレスト株式会社は、プリントした生地を、生地小売店か、
あるいはプリント会社にコネを持たない衣料品メーカーにだけ卸している
唯一のプリント会社である。”
その記事は、パーク・フォレスト株式会社が、
1955年には25柄を、1956年には60柄を提供したこと、
2人のオーナーとルース・アベ女史が同社の柄を描いていること、
オーナーたちがスクリーン・プリントに参入することを考え始めたのは
1947年であることも書いている。
オーナーたちと4人の従業員は機械の大半を1万5000ドルで組み立てたのだが、
それを新品で買ったとしたらその額の10数倍は掛ったことだろう。
また衣料品メーカーの中で彼らの最初の顧客になったのは
ナニ・スポーツウェア株式会社のベティ・ロバートソン女史であった。
記事が書かれた1956年には、パーク・フォレストは、
ワイアラエにある10エーカーの小区画に新工場を建てる手続き中であったのだが、
その工場は彼らのキャパシティの3倍であった。』
サーフン・サンドはハワイのプリント生産量の4分の3を生産している大手であり、
サーフン・サンドとノエル・オブ・ハワイが衣料品メーカーと連携していること、
それに対して、パーク・フォレストは、生地小売店向けや、
小規模メーカーに卸しており、
その中にはナニ・スポーツウェアが含まれること、などが書かれています。
ベティ・ロバートソンは、この人 ↓ です。
テキスタイル・デザイナーでもあります。
(筆者コレクションより)
彼女が着ている「パイナップル・タパ」という柄が代表作だそうです。
こんな柄、見たことがあるんですけどね。
(次回に続く)
コメント 0