ハワイの衣料品製造業の歴史 その215 1950年 ハワイの1産業、生地プリント(18) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(18)
1956年6月3日付ホノルル・アドヴァタイザー紙に載った記事には、
1955年のハワイでのスクリーン・プリント生地の生産量は、
200万ヤード(訳注:約183万m)弱であったと書かれている。
その記事によれば、1956年当時、
スクリーン・プリントに従事している工場は数社あったという。
パーク・フォレスト株式会社はその中の1社である。
同社は1953年頃に株式会社化し、
1955年には30万ヤード(訳注:約27.4万m)の生地をプリントしている。
韓国で生まれハワイで育ち教育を受けたジェームズ・K・K・パークと、
ハワイ大学で美術を学んだエドワード・J・フォスターの2人が同社のオーナーであり、
社長と副社長である。』
パーク・フォレストの話は以前にも出てきましたね。
ジェームズ・K・K・パークはテキスタイル・デザイナーで、この人 ↓ です。
話が重複したり、時代が前後したりで、少し読みにくいのが残念です。
内容だけ確認していただければいいと思います。
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(18)
1956年6月3日付ホノルル・アドヴァタイザー紙に載った記事には、
1955年のハワイでのスクリーン・プリント生地の生産量は、
200万ヤード(訳注:約183万m)弱であったと書かれている。
その記事によれば、1956年当時、
スクリーン・プリントに従事している工場は数社あったという。
パーク・フォレスト株式会社はその中の1社である。
同社は1953年頃に株式会社化し、
1955年には30万ヤード(訳注:約27.4万m)の生地をプリントしている。
韓国で生まれハワイで育ち教育を受けたジェームズ・K・K・パークと、
ハワイ大学で美術を学んだエドワード・J・フォスターの2人が同社のオーナーであり、
社長と副社長である。』
パーク・フォレストの話は以前にも出てきましたね。
ジェームズ・K・K・パークはテキスタイル・デザイナーで、この人 ↓ です。
話が重複したり、時代が前後したりで、少し読みにくいのが残念です。
内容だけ確認していただければいいと思います。
(次回に続く)
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