ハワイの衣料品製造業の歴史 その210 1950年 ハワイの1産業、生地プリント(13) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(13)
サーフン・サンド・ハンド・プリンツ・・・
1952年、アナベル・デーモンはホノルル・アドヴァタイザー紙に、
アルフレッド・シャヒーンが開いた、
サーフン・サンド・ハンド・プリンツという名で知られる
スクリーン・プリントの工場についての記事を書いた。
その記事を以下に再掲載する。
”「ハワイが作るものがハワイを作る」という言葉は、
ホノルルの傑出した衣料品メーカーの1つ、アルフレッド・シャヒーン社が
これまで常に奉じてきたモットーである。
そしてこの言葉が、この種のものとしてはハワイ準州で初めてとなる、
ハンド・プリント生地の工場という新事業のヒントになったのである。”
”シャヒーン氏は自身の工学の経歴を、
ゴードン・ピアースの技術に関する才能と結びつけた。
そのピアースというのは、
4年前(訳注:1948年)にシャヒーンズ・オブ・ホノルルに入社し、
プリント工場の立ち上げに必要な技術的手続きを策定した人物である。”
サーフン・サンド・ハンド・プリンツは、アルフレッド・シャヒーンがハワイに開いた
ハンド・スクリーン・プリントの工場です。
↓ こちらは、プリントしている様子です。
新聞記事によれば、彼のプリント工場は、1948年から試行錯誤を重ね、
4年後の1952年になってようやく実用化されたようです。
つまり、シャヒーンズの織ネームが付いた、レーヨン抜染のアロハシャツは、
1948年から52年の間に、本土のコンバーターから仕入れた生地を使い、
ハワイの自社工場で縫製したシャツであり、
(例えば ↓ こちら)
一方、自社でプリントしたコットンのアロハシャツは、
1952年以降に作られたシャツである、
(例えば ↓ こちら)
(2点とも筆者コレクションより)
ということになります。
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(13)
サーフン・サンド・ハンド・プリンツ・・・
1952年、アナベル・デーモンはホノルル・アドヴァタイザー紙に、
アルフレッド・シャヒーンが開いた、
サーフン・サンド・ハンド・プリンツという名で知られる
スクリーン・プリントの工場についての記事を書いた。
その記事を以下に再掲載する。
”「ハワイが作るものがハワイを作る」という言葉は、
ホノルルの傑出した衣料品メーカーの1つ、アルフレッド・シャヒーン社が
これまで常に奉じてきたモットーである。
そしてこの言葉が、この種のものとしてはハワイ準州で初めてとなる、
ハンド・プリント生地の工場という新事業のヒントになったのである。”
”シャヒーン氏は自身の工学の経歴を、
ゴードン・ピアースの技術に関する才能と結びつけた。
そのピアースというのは、
4年前(訳注:1948年)にシャヒーンズ・オブ・ホノルルに入社し、
プリント工場の立ち上げに必要な技術的手続きを策定した人物である。”
サーフン・サンド・ハンド・プリンツは、アルフレッド・シャヒーンがハワイに開いた
ハンド・スクリーン・プリントの工場です。
↓ こちらは、プリントしている様子です。
新聞記事によれば、彼のプリント工場は、1948年から試行錯誤を重ね、
4年後の1952年になってようやく実用化されたようです。
つまり、シャヒーンズの織ネームが付いた、レーヨン抜染のアロハシャツは、
1948年から52年の間に、本土のコンバーターから仕入れた生地を使い、
ハワイの自社工場で縫製したシャツであり、
(例えば ↓ こちら)
一方、自社でプリントしたコットンのアロハシャツは、
1952年以降に作られたシャツである、
(例えば ↓ こちら)
(2点とも筆者コレクションより)
ということになります。
(次回に続く)
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