ハワイの衣料品製造業の歴史 その208 1950年 ハワイの1産業、生地プリント(11) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(11)
1950年の時点では、ハワイと本土の絵描きが描いたハワイ柄の生地デザインは、
主にローラー・プリントの工程により、本土の工場でプリントされていた。
1950年3月に、アナベル・デーモンがホノルル・アドヴァタイザー紙に
ハワイのテキスタイル・デザインについての一連の記事を書いたとき、
ハワイ柄のプリントについて短く、次のように書いている。
”(訳注:本土の工場は、)ハワイからデザインを受け取ったあと、
色の組み合わせに対処しなくてはならない。
プリントする最初のところで、各色をプリントするためのローラーを
準備するという難しい工程を成し遂げなくてはならず、
カラー・サンプルをプリントし、
承認を得るためハワイの発注元に戻さなくてはならない。”
”このあと、その柄を最終的にプリントし、それがホノルルに発送され、
衣料品メーカーまたは小売店にプリント生地として届けられ、
最終的には人々が、プリント生地や服を買うという形で受け取るのである。” 』
前回は1950年以降の、ハワイでのスクリーン・プリントの話でしたが、
今回は少し戻り、1950年時点での、生地プリントの流れが書かれています
(話が行ったり来たりして少しわかりにくいです)。
すなわち、ハワイの衣料品メーカーや小売店が、
本土のプリント工場にハワイ柄のデザインを送ると、
本土のプリント工場は、ローラー・プリントでプリントし、
確認を取ったあと、ハワイの衣料品メーカーや小売店に発送し、
それが服やプリント生地の形で消費者に届く、
という流れです。
アロハシャツという観点から見るなら、
ここで注意しておきたいのは、
「1950年時点では、本土のプリント工場で、ローラー・プリントするのが
一般的だった」という事実です。
「本土」で「ローラー・プリントする」ということは、
「レーヨンの抜染」か「レーヨンのオーバープリント」か
あるいは「コットンのオーバープリント」のいずれかだったということを意味します。
「レーヨンのオーバープリント」や「コットンのオーバープリント」は、
その後の日本でも行われた(ただしスクリーン・プリントで)ので、
生地を見ただけで、米国製か日本製かを判別するのは難しいですが、
「レーヨンの抜染」は(確実な証拠はありませんが)米国でのみ行われていたので、
「レーヨンの抜染」のアロハシャツはほとんどが1940年代から1950年製であり、
残っていた生地を消化する形で製品となったと考えれば、
あっても、せいぜい1951、2年製まででしょう。
そして同様の理由から、「シアサッカーのアロハシャツ」も、
1940年代から1950年製だと言えるのではないかと筆者は考えています。
(日本製のシアサッカーの生地というのは、見たり聞いたりしたことがありません。
なぜなのかその理由はよくわかりませんが)
ヤフオク出品物で言えば、例えば、これ ↓
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x726971542
とか、これ ↓
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b390189578
とかですね。
特にペニーズ・トップフライトのシアサッカーのアロハシャツは、
プリントの質感や色使いなどの点で、
「1950年頃のアメリカ製」の雰囲気、オーラを持っていますよね。
「(そのあとの)1950年代の日本製のコットンプリント生地」を使った
アロハシャツとは、明らかに違う感じがします(あくまでも筆者の直観ですが)。
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も引き続き「ハワイの生地プリント産業」の部分をご紹介します。
『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(11)
1950年の時点では、ハワイと本土の絵描きが描いたハワイ柄の生地デザインは、
主にローラー・プリントの工程により、本土の工場でプリントされていた。
1950年3月に、アナベル・デーモンがホノルル・アドヴァタイザー紙に
ハワイのテキスタイル・デザインについての一連の記事を書いたとき、
ハワイ柄のプリントについて短く、次のように書いている。
”(訳注:本土の工場は、)ハワイからデザインを受け取ったあと、
色の組み合わせに対処しなくてはならない。
プリントする最初のところで、各色をプリントするためのローラーを
準備するという難しい工程を成し遂げなくてはならず、
カラー・サンプルをプリントし、
承認を得るためハワイの発注元に戻さなくてはならない。”
”このあと、その柄を最終的にプリントし、それがホノルルに発送され、
衣料品メーカーまたは小売店にプリント生地として届けられ、
最終的には人々が、プリント生地や服を買うという形で受け取るのである。” 』
前回は1950年以降の、ハワイでのスクリーン・プリントの話でしたが、
今回は少し戻り、1950年時点での、生地プリントの流れが書かれています
(話が行ったり来たりして少しわかりにくいです)。
すなわち、ハワイの衣料品メーカーや小売店が、
本土のプリント工場にハワイ柄のデザインを送ると、
本土のプリント工場は、ローラー・プリントでプリントし、
確認を取ったあと、ハワイの衣料品メーカーや小売店に発送し、
それが服やプリント生地の形で消費者に届く、
という流れです。
アロハシャツという観点から見るなら、
ここで注意しておきたいのは、
「1950年時点では、本土のプリント工場で、ローラー・プリントするのが
一般的だった」という事実です。
「本土」で「ローラー・プリントする」ということは、
「レーヨンの抜染」か「レーヨンのオーバープリント」か
あるいは「コットンのオーバープリント」のいずれかだったということを意味します。
「レーヨンのオーバープリント」や「コットンのオーバープリント」は、
その後の日本でも行われた(ただしスクリーン・プリントで)ので、
生地を見ただけで、米国製か日本製かを判別するのは難しいですが、
「レーヨンの抜染」は(確実な証拠はありませんが)米国でのみ行われていたので、
「レーヨンの抜染」のアロハシャツはほとんどが1940年代から1950年製であり、
残っていた生地を消化する形で製品となったと考えれば、
あっても、せいぜい1951、2年製まででしょう。
そして同様の理由から、「シアサッカーのアロハシャツ」も、
1940年代から1950年製だと言えるのではないかと筆者は考えています。
(日本製のシアサッカーの生地というのは、見たり聞いたりしたことがありません。
なぜなのかその理由はよくわかりませんが)
ヤフオク出品物で言えば、例えば、これ ↓
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x726971542
とか、これ ↓
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b390189578
とかですね。
特にペニーズ・トップフライトのシアサッカーのアロハシャツは、
プリントの質感や色使いなどの点で、
「1950年頃のアメリカ製」の雰囲気、オーラを持っていますよね。
「(そのあとの)1950年代の日本製のコットンプリント生地」を使った
アロハシャツとは、明らかに違う感じがします(あくまでも筆者の直観ですが)。
(次回に続く)
コメント 0