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ハワイの衣料品製造業の歴史 その113 1942~54年 戦中・戦後期の状況 概略(6) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。

今回は「戦中・戦後編」の概略部の第6回になります。


『1942~54年 ハワイの衣料品製造業の歴史 戦中・戦後編 概略(6)

     1940年代も50年代も、ハワイ・ポリネシア的なスタイルに
    完全に転換することは決してなかった。
    本土タイプまたは国際的タイプのスポーツウェアの多くは、
    水着、シャツ・ウェストのドレス(訳注:詳細不明)、
    サンドレスなどの形でまだ売られていた。
    1942年から60年までの間、地元市場で観光客とお祭りが増えるのに併せて、
    ハワイ・ポリネシア的なスタイルの服はより支配的になっていった。

     州に昇格する1959年以前でさえ、ハワイの衣料品製造業者の多くは、
    本土市場の拡大には、ハワイ・ポリネシア的なラインのほかのライン、
    あるいはそれに付け加えるラインが必要だということを理解していた。
    また彼らは、仕事や改まった席用の、
    ハワイ・ポリネシアとは別のスタイルの服を売り出す余地が
    ハワイ市場にはあることも理解していた。
    そのため、ハワイ・ポリネシア的な服の、戦後最初の大きな流行のあと、
    本土での売り上げを増やそうともくろんでいたハワイの衣料品製造業者は、
    服のラインを拡張してくれるような、新しいスタイルを探し始めた。
    1950年代に彼らは、経験豊富なデザイナーたちを探した。
    その時代より前は、服のデザインよりも生地のデザインに重きが置かれていた。
    1950年代半ば以来、”ハイ・スタイリングな”とか”本土タイプの”とか
    ”国際的な”といった言葉が、
    ハワイの服のスタイリングを表すのにますます使われている。
    1950年代末に、いくつかある中でも特にこのゴールを設定している数社が
    市場に参入する際、服のデザインがより重視された。
    1950年代半ば以来、ハワイの大手衣料品製造業者は、
    国際的な地域に投入できるようなスタイルの服を
    ますます重視してきたのである。』


(次回に続く)

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