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ハワイの衣料品製造業の歴史 その110 1942~54年 戦中・戦後期の状況 概略(3) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。

「戦中・戦後編」の概略部の第3回になります。


『1942~54年 ハワイの衣料品製造業の歴史 戦中・戦後編 概略(3)

    戦中から戦後にかけて、
   ハワイ柄プリントのテキスタイル・デザイナーの数は、
   より多くなった。
   それは、ハワイ市場にプリント生地を売る、
   本土のコンバーター(訳注:無地の布地を染色加工する業者)の
   デザイン部がデザイナーの数を増やしたためであった。
   ハワイ製品の販売促進が本土で起こった戦後期には、
   店側は、ハワイやポリネシアらしい、郷土色のあるものを求めていた。
   ところが戦後すぐにハワイで作られ、
   市場調査のために本土に送られた衣料品の多くは、
   ハワイ柄のプリント生地で作られてはいたが、
   依然として、ボクサー・ショーツ、プリント柄のスポーツシャツ、
   ボレロ付きやボレロなしのサンドレス、プレースーツ、
   男性用スイム・トランクス、女性用のワンピースやツーピースの水着といった、
   ベーシックな本土スタイルのままであった。
   戦後すぐの時期に最も頻繁に本土に送られた、
   ハワイ・ポリネシア・スタイルの衣料品は、
   アロハ・スタイルのプリントシャツやサロン・ドレスであった。
   戦後の本土市場が、1940年代後半のハワイの工場で作られた
   パケ・ジャケットあるいはクーリー・コートや、
   (それらの服の特徴である)マンダリン・カラー(中国襟=立て襟)に
   触れることで、それらの服が持つ新しい東洋的な香りに触れたのである。』


  Noel of Hawaii.jpg

  (「パケ・ジャケット」がどのようなものか詳細は不明ですが、
   これ ↑ が「パケムー」なので、これに似たデザインのジャケットだと思います)

  il_570xN.1709963497_d4pk.jpg

  (「クーリー・コート」は、苦力(クーリー)=アジア系労働者 が着ていた
   上着からインスパイアされたコートのことで、↑ こんなデザインでした)


 (次回に続く)


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