ハワイの衣料品製造業の歴史 その8 1920年代のハワイの衣料品製造 [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本の翻訳が続きます。
『1920年代のハワイの衣料品製造は、小売店によるドレスの仕立て、
男性スーツの仕立て、オーダーメイド衣料が支配的
1920年代の小売店の広告は、輸入された既製服に関するものだけでなく、
反物に関するものも多い。これは、ホームソーイングや、
ドレスメーカーやテーラーの仕事の多さを反映している。・・・以下略・・・
ハワイでのドレスメーカーやテーラーの数は、
1920~30年代も依然として多かった。
例えば、ホノルルの商工人名録にリストアップされている店舗の数は以下の通り。
1924年版-ドレスメーカー97軒・テーラー115軒、
1926年版-ドレスメーカー128軒・テーラー204軒、
1928-29年版-ドレスメーカー158軒・テーラー189軒、
1933-34年版-ドレスメーカー204軒・テーラー100軒。
またミシンの販売業者は1926年版に15軒、
ミシン会社は1928-29年版に12軒リストアップされている。
ホノルルでの裁縫技術の蓄積は、
ハワイで衣料品を工場製造する際の堅固な拠り所となっていた。
1920年代の新聞や定期刊行物に掲載された広告は、
小売店によるオーダーメイド衣料に言及している。
例えば『パラダイス・オブ・ザ・パシフィック』誌1924年12月号に掲載された
ヨネクラという店の広告は、多くの種類の反物や生地を販売していると述べた後、
最後に「着物をオーダーメイドで作る」ことにも触れている。』
1920年代のホノルルでは、前回紹介したリバティ・ハウスのような、
(本土からの旅行者や市内の富裕層を相手にした)一部の高級店を除けば、
ほとんどは、街のドレスメーカーやテーラーで作られた既製服や、
自分用に採寸して作ってもらったオーダーメイドの服だった、
と教授は語っています。
筆者もそうだと思います。
ただし、ホームソーイングについては筆者の考えは教授とはやや異なります。
教授はホームソーイングがかなり普及していて、
家で作る人が多かったように書いていますが、
筆者は、
(女性用のムームーのような簡単な作りの服は可能だったかもしれませんが)
男性用のシャツやアロハシャツを家庭で作るのは難しかっただろうと考えています。
これは、何人かの、当時を知る高齢の日系人に聞いた話に基づいています。
この話は、拙著『ヴィンテージ・アロハシャツ』の中でも触れたのですが、
シャツを作るには複雑な型紙が必要で、それを入手するのは難しく、
洋裁学校のようなところに通わなくてはならなかったこと、
また技術的にもかなり高度だったこと、などがその理由です。
したがって、
「アロハシャツは日系人が着古した着物をほどいて作ったのが始まり」という話は、
筆者は俗説だと考えています。
そもそも絹の着物は高価なものなので、
擦り切れるほど頻繁に着ることはなかったでしょうし、
浴衣のような綿の着物は確かに擦り切れたかもしれませんが、
その擦り切れた生地をシャツにして着るのは、
回りの目を気にする日本人気質からすればかなり恥ずかしかったでしょうし
新品のシャツが、それほど高額でなく手に入ったはずなので、
新品が買えないほど日系人が貧しかったとも思えないのです。
さらに言えば、当時は白いシャツが一般的だった時代であり、
地元の男性で、派手な柄のシャツを着ていたら
かなり変人扱いされたでしょうから勇気のいることですし、
人の目を気にする日本人気質からも、そんな派手なシャツを、
大の男が着たとも思えないのです。
以上のような理由から、
アロハシャツは、本土からの旅行者向けに作られたおみやげ物として始まった、
というのが、筆者の見解です。
そしてそれは、もう少しあとの、1930年代半ばのことになります。
次回は、一部では、そのアロハシャツを発明したとも考えられている
「ムサシヤ・ザ・シャツメーカー」が取り上げられます。お楽しみに。
(次回に続く)
『1920年代のハワイの衣料品製造は、小売店によるドレスの仕立て、
男性スーツの仕立て、オーダーメイド衣料が支配的
1920年代の小売店の広告は、輸入された既製服に関するものだけでなく、
反物に関するものも多い。これは、ホームソーイングや、
ドレスメーカーやテーラーの仕事の多さを反映している。・・・以下略・・・
ハワイでのドレスメーカーやテーラーの数は、
1920~30年代も依然として多かった。
例えば、ホノルルの商工人名録にリストアップされている店舗の数は以下の通り。
1924年版-ドレスメーカー97軒・テーラー115軒、
1926年版-ドレスメーカー128軒・テーラー204軒、
1928-29年版-ドレスメーカー158軒・テーラー189軒、
1933-34年版-ドレスメーカー204軒・テーラー100軒。
またミシンの販売業者は1926年版に15軒、
ミシン会社は1928-29年版に12軒リストアップされている。
ホノルルでの裁縫技術の蓄積は、
ハワイで衣料品を工場製造する際の堅固な拠り所となっていた。
1920年代の新聞や定期刊行物に掲載された広告は、
小売店によるオーダーメイド衣料に言及している。
例えば『パラダイス・オブ・ザ・パシフィック』誌1924年12月号に掲載された
ヨネクラという店の広告は、多くの種類の反物や生地を販売していると述べた後、
最後に「着物をオーダーメイドで作る」ことにも触れている。』
1920年代のホノルルでは、前回紹介したリバティ・ハウスのような、
(本土からの旅行者や市内の富裕層を相手にした)一部の高級店を除けば、
ほとんどは、街のドレスメーカーやテーラーで作られた既製服や、
自分用に採寸して作ってもらったオーダーメイドの服だった、
と教授は語っています。
筆者もそうだと思います。
ただし、ホームソーイングについては筆者の考えは教授とはやや異なります。
教授はホームソーイングがかなり普及していて、
家で作る人が多かったように書いていますが、
筆者は、
(女性用のムームーのような簡単な作りの服は可能だったかもしれませんが)
男性用のシャツやアロハシャツを家庭で作るのは難しかっただろうと考えています。
これは、何人かの、当時を知る高齢の日系人に聞いた話に基づいています。
この話は、拙著『ヴィンテージ・アロハシャツ』の中でも触れたのですが、
シャツを作るには複雑な型紙が必要で、それを入手するのは難しく、
洋裁学校のようなところに通わなくてはならなかったこと、
また技術的にもかなり高度だったこと、などがその理由です。
したがって、
「アロハシャツは日系人が着古した着物をほどいて作ったのが始まり」という話は、
筆者は俗説だと考えています。
そもそも絹の着物は高価なものなので、
擦り切れるほど頻繁に着ることはなかったでしょうし、
浴衣のような綿の着物は確かに擦り切れたかもしれませんが、
その擦り切れた生地をシャツにして着るのは、
回りの目を気にする日本人気質からすればかなり恥ずかしかったでしょうし
新品のシャツが、それほど高額でなく手に入ったはずなので、
新品が買えないほど日系人が貧しかったとも思えないのです。
さらに言えば、当時は白いシャツが一般的だった時代であり、
地元の男性で、派手な柄のシャツを着ていたら
かなり変人扱いされたでしょうから勇気のいることですし、
人の目を気にする日本人気質からも、そんな派手なシャツを、
大の男が着たとも思えないのです。
以上のような理由から、
アロハシャツは、本土からの旅行者向けに作られたおみやげ物として始まった、
というのが、筆者の見解です。
そしてそれは、もう少しあとの、1930年代半ばのことになります。
次回は、一部では、そのアロハシャツを発明したとも考えられている
「ムサシヤ・ザ・シャツメーカー」が取り上げられます。お楽しみに。
(次回に続く)
2020-02-02 22:47
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