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ハワイの新聞記事から その136 1984 ジョージ・ブランジエへのインタビュー(3) [ハワイの新聞記事から]

筆者が収集した、アロハシャツに関するハワイの新聞記事の中から、
面白そうなものをランダムに選び、翻訳してご紹介しています。

今回もカハラに関する記事を翻訳します。
と言っても、正確には新聞の記事ではなく、
カハラの共同創業者、ジョージ・ブランジエへのインタビューを
文字に起こしたものの翻訳になります。




George-Brangier (2).jpg

『ジョージ・ブランジエへのインタビュー(3)
インタビュー/ケン・プラット

ケン・プラット:さて、いつアメリカに戻ったのですか?

ジョージ・ブランジエ:ええと、私は1923年に戻ってきました。

1923年の終わりか、24年の初めです。

パナマを経由して。

そこで一文無しになり、トラック運転手として4ヶ月働きました。

当時は本当に大変でした。

それで私はカリフォルニアに戻りました。

バーリンゲーム(訳注:サンフランシスコ半島にある都市)で
短編映画を作っている人がいたので、そこで働きました。

そして本当に映画界に入りたかったので、ハリウッドに行きました。

実のところ、私はジョン・ウェイン、ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブルと
同じ時期に始めたのです。

ケン・プラット:それは面白い。

ジョージ・ブランジエ:ゲイリー・クーパーは、
当時ハリウッドにあったユニバーサル以外のすべてのスタジオを経験していました。

当時フォックス・フィルム(訳者補足:20世紀フォックスの前身)は
サンセットとウエスタンの角にありました。

ゲイリー・クーパーがブーツ、ジーンズ、カーチフ、帽子を身に着けて
私の前に登場したのを覚えています。

第二助監督がやって来て、「おい、キミ、3ドルとランチ」と言うと、
彼は「はい」と言いました。

それはくたびれた弁当でした。

サンドイッチ2つとリンゴ1つ、それに3ドル。

当時、私はフォックスから4ブロックくらい離れた
ヴィレッジ・インに住んでいました。

2ブロック先にはワーナー・ブラザーズがありました。

私がハリウッドにいた当時、クラーク・ゲーブルは、
と言っても当時はその名前ではありませんでしたが、
小さなホテルの後ろにあるガレージ・アパートメントに住んでいました。

私は大物でしたよ。

風呂付きの部屋に週10ドル払っていましたから。

ともかく、ゲーブルはワーナー・ブラザースで
杭穴を掘る労働者として働いていました。

彼らはワーナー・ブラザーズのスタジオの周りに新しいフェンスを立てていたのです。

ウェインの方は、稼いだお金をすべて飲んでしまったので、
まともな服を着ることは決してありませんでした。

そのため彼らはウェインを暴徒のシーンで使わなくてはなりませんでした。

ケン・プラット:やがて彼はスターになりましたね。

ジョージ・ブランジエ:彼らはみんなスターになりましたよ、
私はなりませんでしたけど。

ケン・プラット:しかし、あなたは
かなり多くの映画に出演していたんですよね。』



ジョージ・ブランジエがハリウッドで俳優をしていたという話は、
これまで一度も語られてこなかったと思います。
筆者も知りませんでした。

古い映画のどこかに、ちょい役で出ていたのでしょうね。
今度古い映画を見るときには気を付けて見るようにしてみます。


彼がハワイにやって来るところまで、なかなか話が進みませんね。
もうしばらくおつきあいください。
きっと面白い話が出てきますから。



(次回に続く)

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