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リンダ・アーサー著『20世紀のアロハ服』その65 1945年~1950年代半ばの布地(10) [リンダ・アーサー著『20世紀のアロハ服』]

元ハワイ大学教授のリンダ・アーサー氏が書いた
『20世紀のアロハ服』という本の翻訳をお届けしています。

現在は、「1945年~1950年代半ばの布地」について語られています。


『第5章「1945年~1950年代半ば
     :クラシック・シルキーズ(古典的レーヨン羽二重)

  布地(10)

 サーフン・サンドのレーベルのもとに生産された
(スクリーン・)ハンドプリント生地は、1947年から55年にかけて
シャヒーンのデザイナー・チームによってデザインされたものである。

また彼らのデザインのいくばくかはレーヨン地にプリントされた。

1950年代後半までには、レーヨンはもはやアロハ服には使われなくなった。

このことは、ハワイ大学民族衣装コレクションの中の、
証拠書類の整ったアロハシャツの数からも明らかであったが、
その時期に製造者であったアルフレッド・シャヒーンによっても
以下のようにはっきりと説明された。

「デュポンでの火災によってレーヨンを使うのをやめたという意見は作り話です。
レーヨンは古臭くなった、つまり単に流行遅れになったに過ぎないのです。以上。」』



一般にシャヒーンズは「1947年からアロハシャツを作っていた」とされますが、
上の記述にあるように「1947年から」自社でデザインしていたわけではないと
筆者は考えています。

なぜなら、アルフレッド・シャヒーンの両親がドレスショップを営んでいたため、
おそらくその人材や生産設備を利用する形でアロハシャツの生産も始めたでしょうし、
そうであれば、最初からデザインまで行う余裕はなかっただろうと考えるからです。

つまり最初のうちは、本土の生地メーカーから出来合いのプリント生地を買い、
それをシャツに仕立てていたけれど、
数年たってそこそこの数が売れるようになり、
「それじゃあ、オリジナルのデザインで作ってみようか」となり、
その時点で(仮に1949年頃としておきましょう)デザイナーを雇い、
独自の柄をデザインするようになった、と考えるのが自然だと思うのです。

また、自社プリント工場のサーフン・サンドを始めたのも
創業した1947年ではなくその数年後
(確か1948年と語っていたように記憶しています)でした。

「本土からのプリント生地の入荷がたびたび遅れたため、
 自社でプリントしようと考えた」とシャヒーン自身が述べていることからも、
創業時にはプリント事業は行っていなかったのは明らかです。

しかもゼロから立ち上げたため試行錯誤も多く、
安定的にプリント生地を生産できるようになったのはさらに数年後なのです。

そしてサーフンサンドの生地を大々的に広告し始めたのは1952年だったことから、
本格的に稼働したのは1952年からであると筆者は考えています。

サーフンサンドはハンドスクリーンプリントを行っていたので、
大部分がコットン、ごく一部がシルクでした。

サーフンサンド.jpg

(公式HPより引用)

裏を返せば、「レーヨン製のシャヒーンズ」は、1947年頃から1952年頃に、
本土のプリント生地を使って作られたものであるということになります。

シャヒーンの場合は、自社でコットンのプリントを行うようになったため
1952年頃からレーヨンを使わなくなったのです。

「レーヨンは流行遅れになった」から使われなくなったというのは
シャヒーン以外では、ある意味、正しいのかもしれませんが、
筆者は、「コットンのほうがコスト面から魅力的になったため」というのも
理由の1つではないかと考えています。


ちなみに上の文章に出てくる
「デュポンでの火災によってレーヨンを使うのをやめた」という説は、
洋書『THE HAWAIIAN SHIRTS』の記述で広まった俗説のようです。

511C8heg6jL.jpg


(次回に続く)

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