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ハワイの衣料品製造業の歴史 その199 1950年 ハワイの1産業、生地プリント(2) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。

現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も前回に引き続き「ハワイの生地プリント産業」についてご紹介します。



『1950年 ハワイの1産業、生地プリント(2)

  戦後、本土の生地販売会社は、
 本土の工場が生地をローラー・プリントするのを奨励するようになり、
 1940年代末から1950年代初頭には、ハワイの衣料品メーカーは
 銅のローラーでプリントされた大型の反物を買うようになった。

  1950年までは、ハワイ柄の生地デザインは、
 ブロック・プリント、ローラー・プリント、スクリーン・プリントの手法で
 プリントされてきたが、
 1950年代の10年間は、ハワイ柄の生地デザインをプリントするには、
 スクリーン・プリントが次第に好まれるようになった。

 というのも、1000ヤードから5000ヤードまで(訳注:約900m~4500m)の
 比較的少量の反物の場合、衣料品メーカーにとっては
 スクリーン・プリントがお得にプリントできるからである。

 小さなメーカーは必要とする反物も少量であるし、
 大きなメーカーも、1プリントの最低量が少なくて済めば、
 プリント柄の種類を増やすことができる。

 柄の種類が豊富であることは、
 「うちだけ」の柄を欲しがる小売店に訴求しなくてはいけない衣料品市場においても
 必要なことなのである。

 スクリーン・プリントなら、より少量から提供可能なのに対して、
 ローラー・プリントは最低8000ヤードから1万5000ヤードまで
 (訳注:約7300m~1万3700m)と、より大量の注文を要求されるのである。』




ローラー・プリントは、レーヨン抜染やコットンに使われた手法で、
ここでも述べられているように、大量生産に向いていて、
1950年頃まで多かったプリント法です。

それに対して、スクリーン・プリント(この時代はまだ手捺染。のちに、機械を使った
自動式に移行します)は日本が得意とする手法で、少量多品種生産に向いています。
また、低賃金により安価にプリントできたこともあって、
日本との貿易が再開した1950年代のハワイでは、
この手法のプリント生地が好んで使われるようになったわけです。

1950年頃を境に、レーヨン抜染のアロハシャツが作られなくなり、
レーヨンやレーヨン縮緬の、オーバープリントのアロハシャツがほとんどになったのは、
このような背景があったからなのです
(ちなみにコットンのアロハシャツは、1950年以前も以降も、
 変わらずに作られました)。


(次回に続く)

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