ハワイの衣料品製造業の歴史 その195 1950年 ハワイのテキスタイル・デザイン(15) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]
ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も、「ハワイのテキスタイル・デザイン」の話題が続いていますが、
その中の副項目「テキスタイル・デザインのその後の流行」の1回目になります。
『1950年 ハワイのテキスタイル・デザイン(15)
テキスタイル・デザインのその後の流行(1)
ハワイでの生地デザインは、最初のブームのあとも発達したが、
その発達の仕方が何度か変化した。
メーカーは数年の間、ますますテキスタイル・デザイナーを雇うようになり、
そうでなければ生地コンバーターの絵描きに依存するようになった。
本土の生地コンバーター数社の絵描きたちは、
依然として、定期的にハワイを訪れていた。
1950年代の十年は、年を追うごとに、日本でプリントされる生地が増えていき、
それにつれて、多くのデザインが日本で行われるか、
あるいはプリントするため日本に送られた。
その一方ハワイでも、アルフレッド・シャヒーン社や
ヴォン・ハム・ヤング社のハワイアン・テキスタイルズのような染工所が
開かれるようになり、それにつれて、それらの会社が、
地元の服飾メーカーに喜ばれるようなデザインを生み出すために
フルタイムの絵描きを雇うようになった。
ハワイのテキスタイル・デザインに関して、もう1つ発達したのは、
テキスタイル・デザイン・スタジオである。
それは例えば、ラッセル・トッド主宰のオーシャン・デザインズ、
ルイーズ・チャン女史主宰のテキスタイル・デザイン・スタジオ、
そしてテキスタイル・アーツ社などである。
服飾メーカーやコンバーターはプリント柄のデザインを、
フリーランスの絵描きからばかりではなく、
こうしたデザイン・スタジオからも買っている。
また、テキスタイル・デザイナーを自社で抱える服飾メーカーも多く、
例えばトリ・リチャード株式会社のジャン・フェルドマン女史がそうである。』
上の話(1950年代のテキスタイル・デザイナーとそのデザインの流れ)をまとめると、
次のようになります。
フリーランスの絵描き → ハワイの服飾メーカー/本土のコンバーター
デザイン・スタジオ → ハワイの服飾メーカー/本土のコンバーター
メーカーの社内デザイナー → ハワイの服飾メーカー
コンバーターの社内デザイナー → ハワイの服飾メーカー
さらに、日本でプリントするなら日本でデザインしたほうが便利なので
日本のテキスタイル・デザイナー → 日本の染工所 → ハワイの服飾メーカー
という流れも出てきます。
この文章に出てくるように、
1950年代には、日本のプリント生地(壁縮緬/コットン/シルク)が増えていき、
ハワイのプリント生地(シャヒーンのコットン)も出てくるようになり
(ハワイアン・テキスタイルズはハワイではなく本土でプリントしていたと思われます)、
それと共に本土のコンバーターからの生地は減っていったと考えられます。
結局、デザインとプリント工程が合わさったほうがコスト面でも有利なため、
◆日本でデザインし日本でプリントする か、
◆ハワイ(自社内)でデザインしハワイ(自社)でプリントする(シャヒーン) か
に収斂していくことになります。
(つまり「ハワイでデザインし日本でプリントする」のはそれほど多くないのでは?)
(次回に続く)
現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も、「ハワイのテキスタイル・デザイン」の話題が続いていますが、
その中の副項目「テキスタイル・デザインのその後の流行」の1回目になります。
『1950年 ハワイのテキスタイル・デザイン(15)
テキスタイル・デザインのその後の流行(1)
ハワイでの生地デザインは、最初のブームのあとも発達したが、
その発達の仕方が何度か変化した。
メーカーは数年の間、ますますテキスタイル・デザイナーを雇うようになり、
そうでなければ生地コンバーターの絵描きに依存するようになった。
本土の生地コンバーター数社の絵描きたちは、
依然として、定期的にハワイを訪れていた。
1950年代の十年は、年を追うごとに、日本でプリントされる生地が増えていき、
それにつれて、多くのデザインが日本で行われるか、
あるいはプリントするため日本に送られた。
その一方ハワイでも、アルフレッド・シャヒーン社や
ヴォン・ハム・ヤング社のハワイアン・テキスタイルズのような染工所が
開かれるようになり、それにつれて、それらの会社が、
地元の服飾メーカーに喜ばれるようなデザインを生み出すために
フルタイムの絵描きを雇うようになった。
ハワイのテキスタイル・デザインに関して、もう1つ発達したのは、
テキスタイル・デザイン・スタジオである。
それは例えば、ラッセル・トッド主宰のオーシャン・デザインズ、
ルイーズ・チャン女史主宰のテキスタイル・デザイン・スタジオ、
そしてテキスタイル・アーツ社などである。
服飾メーカーやコンバーターはプリント柄のデザインを、
フリーランスの絵描きからばかりではなく、
こうしたデザイン・スタジオからも買っている。
また、テキスタイル・デザイナーを自社で抱える服飾メーカーも多く、
例えばトリ・リチャード株式会社のジャン・フェルドマン女史がそうである。』
上の話(1950年代のテキスタイル・デザイナーとそのデザインの流れ)をまとめると、
次のようになります。
フリーランスの絵描き → ハワイの服飾メーカー/本土のコンバーター
デザイン・スタジオ → ハワイの服飾メーカー/本土のコンバーター
メーカーの社内デザイナー → ハワイの服飾メーカー
コンバーターの社内デザイナー → ハワイの服飾メーカー
さらに、日本でプリントするなら日本でデザインしたほうが便利なので
日本のテキスタイル・デザイナー → 日本の染工所 → ハワイの服飾メーカー
という流れも出てきます。
この文章に出てくるように、
1950年代には、日本のプリント生地(壁縮緬/コットン/シルク)が増えていき、
ハワイのプリント生地(シャヒーンのコットン)も出てくるようになり
(ハワイアン・テキスタイルズはハワイではなく本土でプリントしていたと思われます)、
それと共に本土のコンバーターからの生地は減っていったと考えられます。
結局、デザインとプリント工程が合わさったほうがコスト面でも有利なため、
◆日本でデザインし日本でプリントする か、
◆ハワイ(自社内)でデザインしハワイ(自社)でプリントする(シャヒーン) か
に収斂していくことになります。
(つまり「ハワイでデザインし日本でプリントする」のはそれほど多くないのでは?)
(次回に続く)
コメント 0