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ハワイの衣料品製造業の歴史 その192 1950年 ハワイのテキスタイル・デザイン(12) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本『ハワイの衣料品製造業の歴史』の翻訳をお届けしています。

現在は、「戦中・戦後編」の章を少しずつ翻訳しているところです。
今回も、「ハワイのテキスタイル・デザイン」という話題ですが、
その中の「本土での人気ぶり」についての記事を紹介した部分になります。



『1950年 ハワイのテキスタイル・デザイン(12)

 ハワイ柄プリント生地の本土での人気ぶり(2)

  1952年12月27日付ホノルル・スターブリトゥン紙の産業面に載ったある記事は、
 当時のハワイの経済構造における、テキスタイル・デザインの重要性について
 次のように説明している。

   ”戦後のハワイの生地産業は、文字通り、その縫い目を引き裂きながら、
   非常に急速に成長してきた。”

   ”最初はハワイ柄の上に築かれた、この新しい産業は、
   不規則なスポーツウェア市場の浮き沈みを受けやすいが、
   第二次世界大戦後のわずか数年で売り上げ650万ドルの産業になった。”

   ”米国本土の需要の季節的な特徴
   (訳注:需要が、夏は高まり冬は低下するという特徴)は、
   ハワイの住民が着る衣料品や観光客が消費する衣料品の製造が
   著しく増加したことによって、ある程度は補われてきた。”

   ”それどころか実際は、ハワイ内の流通額が、
   ハワイからの輸出総額を約2倍上回っているのである。”

   ”生地産業の労働者に支払われた賃金は、
   100万ドルの節目に近づき、これを超えた。

   そのことが、生地産業を、ハワイ経済の中の活力ある部分にしているし、
   本土との貿易収支の黒字を生み出す原動力にもしているのである。” 』




前回までの部分では、テキスタイル・デザイン(特にハワイ柄)と、
それをプリントする、本土のプリント・メーカーの話でした。
そして、少しわかりにくいのですが、今回はどうやら、
「ハワイでのプリント産業」の話に移っているようです。

ハワイでは、テキスタイル・デザインは戦前から行われてきましたが、
生地のプリント産業に関しては、それほど発達してはいませんでした。
小規模で比較的簡単な「ブロック・プリント」は戦中にもあったようですが、
より大規模なハンドスクリーン・プリントは、戦後になってから出てきたようです。

そして、アロハシャツのプリントでも知られる、アルフレッド・シャヒーン社の
プリント部門が実用化にこぎつけたのが、この記事が書かれた1952年頃であり、
いよいよハワイでもデザインから製品化まで行えるようになったわけです。
(それまでは、テキスタイル・デザインはハワイで行っても、
 そのデザインを本土に送り、本土でプリントしたのちに、
 プリント生地をハワイに戻して製品にし、それを再度本土に送って販売していました)

つまり、ハワイでプリントできるということは、
時間的にも金銭的にも節約できてハワイ経済を活気づけることになりますし、
またプリント生地を輸入しなくてよくなるため貿易収支も改善するというわけです。



(次回に続く)

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