SSブログ

ハワイの衣料品製造業の歴史 その53 1936年 エルシー・ダースとハワイアン・ファブリックのデザイン(前編) [ファンダバーク著ハワイの衣料品製造業]

ファンダバーク教授の本の翻訳が続きます。


今回からは、ハワイ柄のテキスタイルを最初にデザインしたと言われる、
エルシー・ダースのお話です。和柄として誕生したアロハシャツがハワイ柄に変わり、
現在に至るまで定着している、そのきっかけ(の一端)を
この人が作ったとも言えるでしょう。


 『1936年 エルシー・ダースとハワイアン・ファブリックのデザイン(前編)

  1936年初頭、ハワイで反物として売られていた明るい色のプリント生地と、
 ハワイのテーラーや主婦が作ったプリントシャツは主に、
 日本や東洋のその他の地域から輸入された生地で作られていた。
 それらはふつう、明るい色のハンドブロック・プリントの生地であったが、
 ハワイ柄ではなかった。
  1936年にワットムルス・イースト・インディア・ストアは
 エルシー・ダースに15種類のハワイ柄をデザインするよう依頼した。

 Elsie-Das-Hope-400.jpg

 そして生地に直接ペイントされた見本を日本に送り、
 ローシルクにハンドブロック・プリントするよう注文したのである。
 エルシー・ダースはエレン・ワットムルの妹で、
 1928年に一度ハワイを訪れたのだが、帰郷してすぐ、
 長期滞在のためハワイに舞い戻り、ウィンドウ・デコレーターとして、
 義兄が経営するワットムルス・イースト・インディア・ストアに雇われ、
 その仕事からテキスタイル・デザインに興味を持つようになった。
 彼女はデザインの仕事をする前から、ポートランド美術学校やミネソタ大学などで
 美術を学んでいた。』


 アロハシャツの最初期の素材や柄、色などは、
新聞広告などの資料から得られる情報が少ないため、
詳しいことはよくわかっていません。
また、この年代あたりの古いヴィンテージ・アロハが残っていることも珍しいですし、
ましてや年代を特定できるものはほとんどないと言ってもよいでしょう。
そんなわけで、これまでイメージするのがなかなか難しかったのですが、
教授はここで、やや具体的に述べています。それをわかりやすくまとめると
以下のようになります。

1936年初頭のハワイでは、
1)「明るい色のプリント生地」が、反物として売られていた
2)それらの生地を使って「ハワイのテーラー」や「主婦」がプリントシャツを作っていた
3)そのようなプリント生地は主に、「日本」や「東洋のその他の地域」から
  輸入されたものだった
4)それらはふつう、「明るい色」の「ハンドブロック・プリントの生地」であったが、
  「ハワイ柄ではなかった」

日本からは着物(柄)や浴衣の生地が、
インドネシアからはバティックが入ってきたことは、
少し前の考察で述べられていました
(米国本土から輸入されたプリント生地もあったと思うのですが、
 ここではそれについて触れていません)。
また、キング・スミスの広告などから、サモアの花柄(パレオ柄)や
ハワイのタパ柄などのプリント生地が存在したこともわかっています
(ただし、サモアやハワイでプリントされたわけではありません)。
着物柄の生地(ただし柄は着物と同じようなものですが、
着物を作る時に使う「幅の狭い生地」ではなく、
ガウンなどを作るための「幅の広い生地」)であればシルクや縮緬、
浴衣の生地であればコットンだったでしょう。
着物柄であれば当然、ハワイの花やフラガールのようなハワイ柄はなかったでしょう。
またバティック柄、パレオ柄、タパ柄はコットンだったでしょう。

 そのような時代に、エルシー・ダースが登場し、ハワイ柄をデザインし、
ハワイ柄のプリント生地を売り出したのですから、
さぞかしもてはやされたことでしょう。


(次回に続く)


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ファッション

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。